2011年11月15日火曜日

冬太り、、、


最近体重計にのって驚かされた。太ったなと思いきや70キロにまた返り咲いた。この一ヶ月で五キロ増えた事になる。食べ物に恵まれている訳ではないが食生活の乱れと、運動不足が重なったせいだろうか、腹がでて来た事に羞恥心を感じるこの頃である。
外の気温は今0度。全く持って外に出る気にはなれない。東南アジアからインド、そしてイギリスの夏をまたいでのベルリンの冬。まだまだ冬本番ではないのが肌に滲みる。とりあえずバイトには自転車でなるべく行くように試みているが、突抜ける風はガラスのように耳に鋭く刺さり、感覚の麻痺する肌は垂れる鼻水をも感じさせてくれない。寒さに弱い自分に笑いが出る。
ドイツではイモ、チーズ、ソーセージ、そしてビールが安い。とにかく安い。今日もイモを5キロ買い、約150円。チーズが1キロで400円、ビールが大ビンで一本なんと30円。冬という言い訳に暴飲暴食の週末がやってくる。寒さに耐えるために脂肪を増やすというより、寒いために動かず、脂肪が増えていく。それに寿司、どちらかというと米、も太る原因だ。寿司屋で働かしてもらってるので、米が多い。まかないも存分食べさしてもらっているのでこれからも太りそうだ。
クライミングをやっていたときが不思議なぐらい体が弱ているのに気づいたのは、本棚を持って階段を上った後、左肩の神経を痛めた事だ。まったく、、、だらしのない体になってしまった。
こんな風に旅をするつもりではなかったのだが、、、イタリアかスペインに行ってまた温かい気候を楽しむこともしたいが、そこにはワーホリビザはない。やっと落ち着いた生活を確保したのに動くのも難しい。冬とはまったく考えさせられるだけで行動が伴わない。腹と愚痴の出るこの頃のブログです。

2011年11月4日金曜日

ハンピが変わる、、、


アジア、もしくはインドを旅したものはその地を訪ねた人、少なくとも聞いた事はあるだろう。そのインドの汚い臭いの小さな地域に、500年以上も前に栄えたヒンズー教の滅びた都の跡地がある。広大な都は見渡す限り奇怪な丸い岩に囲まれていて、高台から見渡すその景色は超自然的で、そこが地球上である事を疑問に思えるほど幻想的である。川を渡ると青々と稲田が広がっており、自然の美しさを与えてくれた。
その地はまた一つの理由で旅人の間では知られている。ロッククライミングだ。千と広がる無数の岩山は、クライマーにとって無限の楽しみだ。そしてハンピ特有の未開発な雰囲気を味わいながら一日を過ごす、それがハンピだ。
俺が着いたのは、バンガローからバスで12時間、早朝五時。未だ開拓の的にはなっておらず、土ぼこりと、牛の糞まみれの旅路の中、雄大な朝日を与えてくれた。それはともかく、今年の7月30日ほどにハンピの街の完全一掃が行われたらしい。もちろん世界遺産は対象外だが、被害に会ったのはそこに住んでいる住民の人たち。
数時間の警告後、早朝五時、メインバザーの大通りに警官連れで開発者達が乗り出し、通りにある店や家を破壊したらしい。一度、ハンピが世界遺産に指定されてから、付加価値が上がり、開発に踏み切ったらしい。未だにそこに住んでいたものたち、働いていた人たちの手当がどうなったかは不確かだ。
それと、当時あったインドらしい雰囲気が変わってしまう事が心配だ。まだ一掃の対象外として扱われているらしいが、滞在したGoan Cornerがなくならない事を心から祈る。
小さな記事ですが参照(英語)
http://rockandice.com/news/1540-breaking-news-hampi-village-destroyed

2011年11月1日火曜日

ベルリン生活、始まった仕事


Sushi & Friend

仕事が始まった。とりあえず週に二日、月曜と水曜、昼から働かしてもらう事になったSushi & Friend、ん〜、もっと仕事をしないと念願のカメラが買えない。とりあえずそれだけで生活はぎりぎりやっていけるのだが稼ぎがほしい。んま、とりあえずゆっくり始める事に。
ベルリンの中心街から自転車で一時間ほど離れた住宅街、家からチャリで三十分、そこそこな距離で運動にもなりそうでこれからが楽しみだ。今、初日の仕事を終えたところだ。このレストランにはベトナム人に中国人、ドイツ人のウェイトレスにギニア人もいる。結構国際的。しかしながら共通語はドイツ語、会話には困った。寿司はドイツにしてはまずまず。まかないはおいしかった。
驚いた事にイカがある。タコも、甘エビも、鯖、ホタテにイクラ、ホッキ貝まであったので少し驚いた。巻き寿司をほぼ担当だが、ニギリも時々。少し大きめのシャリにネタをのっけるのだがドイツ人用と考えれば納得はいく。おっと、こんな悪口めいた事をこんなところに書いていいのだろうか、、、 んま、結構おいしいので見つけたら試しに食べに来てください。
もう一つ驚いた事は初日の月曜の食べ放題だ。確かに客は入っていた。忙しく寿司巻きをつくった。巻きにニギリ、春巻きなどもありメニューは納得のいく盛り合わせ。それで値段が一人14ユーロ。だいたい1500円くらいだ。安い!経営が成り立つのが不思議なくらいだった。
しかし給料は納得のいかない時給5ユーロ、、、 んま言葉も話せないんでは仕方がないのかもしれない。いつ辞めるかはわからないが、とりあえず始まった仕事には精を尽くしがんばるつもりだ。

2011年10月30日日曜日

仕事探し

これまたお世話になりました。
とりあえずドイツ語が話せないので日本食レストランを回った。自転車で街をぐるぐる、意外にも数ある寿司屋さん、ほとんどがベトナム系の人が経営してます。ドイツ語が話せないとあんまり相手にされませんでした。一つ一つ寿司屋に入り聞き回る事半日、コイッツバーグにある一つの寿司屋にバイトを探していないかと聞くと、そこにはなかったが、その店の人、ケンさんと話をしていると、ケンさんが知り合いの寿司屋に電話してくれるとの事。ケンさんが次から次へと電話をかけ回す。その日は見つからなかったけど次の日、ケンさんから連絡が入り一つ見つけたと連絡があった。とても親切な人である。街からはかなり離れた場所だったが、トライアルをくれ先週三時間ほど働いた。働かしてもらいそうだ。月曜と水曜に仕事が入る事になった。

そしてもう一つ。
メルボルンに住んでいたときにシェアをしていた友達、ミリーがベルリンに遊びに来た。一緒に飲みに行き、久々の再会に乾杯。今までの旅路、共に住んでいたときの話で盛り上がった後、仕事を探していると言うと、もしかしたらと連絡先をくれた。その後その連絡先トニーに電話をすると、仕事内容を説明され、いつでも始めていいよと。二つ目が決まった。路上に立ち、通り行く人に声をかけ、体の不自由な人に募金を募る人を探し連絡先をもらうこと。それが仕事だ。まだ始めてはいないが、冬に向けて路上の仕事とは少し身が引ける。んま、与えられたチャンスなのでがんばってみることにした。

という風に運良く二つ仕事が入り、生きる事には問題なくベルリンの生活を始められそうだ。人との出会いとはありがたいものだ。

2011年10月28日金曜日

ドイツ入国!!!


十月二十八日、今現在。

ドイツに来てかれこれ一ヶ月近くが経った。
今はベルリンの街の中心から自転車で30分くらい離れたノイコーン(Neucolln)という所のアパート、キッチンとトイレシャワーを共有でドイツ人二人、とイタリア人と四人で生活をしている。光熱費込み、インターネットも合わせて月185ユーロ、ベルリンにしては安い方らしい。
久々の自分の部屋。筆立てに戸棚、クローゼットに机、毛布を購入、部屋用のスリッパに歯ブラシ用のカップ。一年半の移動ばかりの生活から解放されバックパックから荷物を全て取り出し、部屋をつくる一般的な事が懐かしく楽しかった。
観光はまだしていないし、部屋から出る事もまだすくない。とりあえず何もしなくていいという安泰感を味わう事に専念し、一ヶ月近くも経ってしまった。
毎日ギターを弾いたり、絵を描いたり、アニメ見たり、ブログ書いたり、半年もほったらかしにしていた旅のビデオにも手を付け出したり、忙しくはあるが生活が一日中部屋の中で暇をも感じたりした。んま、こんな生活が必要だと感じてたから、自分整頓といったところだろうか。それに今はとにかく寒くなってきているし動きたくないのも事実だ。
ドイツ語はまだ全くといっていいほど話す事はできない。若いものはだいたい英語で通じるが、街から離れたり(俺が住んでる所も)、ドイツ人以外の人(トルコ人やアラブ系が多い)、それから三十代後半の人は英語が通じず会話には苦労する。
とりあえず仕事は二つ見つけた。ビザはまだワーホリには変えきれてない。住所登録待ちだ。ドイツ語勉強に手をつけようと、まだやる気が起こってるわけでもない。今までが今までで奇跡的で、中途半端な気持ちになって来ているのは確かだ。とにかくここに書く事で自分に言い聞かせる事ができるかもと、活を入れ直す気持ちだ。

んま何もしてないと言う訳じゃないが、、、

とりあえず、ベルリン到着から書くとします。



到着、家探し

10月3日月曜日、ベルリンのSchönefeld国際空港に朝八時に到着、事前にインドで会ったセブーに連絡していたので迎えに来てもらった。彼もベルリンに引っ越して来て一週間しかったっておらず偶然の再会に感動した。フェイスブックのおかげで連絡が取れたのだ。最近のインターネットはとても便利になったものだ。
とりあえず少しベルリンを回ってから朝食を共にし、そいつの家に泊めてもらう事になった。次の日から仕事が始まるらしく、忙しい中お世話になり感謝した。夜は一緒に飲みに行きアレーシアで旅を一ヶ月共にしたアンジーにも再会。後日、その子に今住んでいるアパートを紹介してもらうが、持つべきものは友達だと本当に感謝。二日間セブーの家で世話になり次は中国で会ったイスラエル人のバーの世話になることになった。セブーの家は街から遠かったし、仕事が忙しそうだったから早めに出ることにしたのだ。
バーの家は街の中心街にあり、いろいろと世話になり飲みに行ったりもした。親戚が来るというのでそこにも長居は出来ず三日後に、今度はマレーシアで会ったことのある友達バフ、の家(Neucolln) で世話になった。バフの家はかなり大きく、ガレージにワークショップがあり地下も広くあり楽しそうな家だった。芸術家の集まる家らしく、今後が楽しそうだ。そこにも三日間、それからアンジーから連絡があり、今の家が見つかった。かれこれ一週間、特に自分から何をするでもなく、いろんな人に世話になった。感謝感謝。



ベルリン

ベルリンはドイツの首都であり(着いて知りました)、北東に位置し、ポーランドやデンマークの国境に近い。冬は雪がかなりつもるらしく、地面も凍りつくらしい。第二次大戦でひどく被害をうけたらしく街は再興のおかげでかなり構成され、外見は単調で、個人的にはイギリスを見た後だったので少し面白みに欠けた。ベルリンの壁の崩壊後、首都になりここ十年で急成長したしたらしく本当に真新しい街だ。
とりあえずベルリンに住む気になったのはベルリンが芸術と音楽の街として知られ、学生の街と呼ばれ、楽しいと聞いたからだ。聞いた通り。カフェに入り人と話すと、画家だとか音楽家だとか、写真家、役者だとかデザイナーだとかばかりに出会い話が盛り上がる。歩く街のそこら中にストリートアートが描かれており影響させられる。
トルコ人が多く主にケバブを削っている。イタリア人にイスラエル人、多国籍なところだ。
比べると少なくはあるけど、意外にも日本人の人口もあり驚いた。
とりあえず一ヶ月経った今の感想だ。



ビザ、、、

本心はパリに行きたかったが、ドイツでしかワーホリは採れず苦しくもの選択と言えないこともないのは事実。ドイツでは観光で入ってからドイツ内でワーホリビザが採れる事になっている。(2011年11月現在)俺はまだ採れてはいない。
とにかく日本で取得できるなら日本国内で取得する事をここではお勧めする。
もしくはドイツ国外のドイツ大使館でが一番お勧め。
俺は先月までイギリスに四ヶ月、インドに三ヶ月いたので、ドイツ国内で申し込む事になった。イギリスでやっておけばよかったと後悔、、、

困難ではないと思うがとにかく面倒臭い、、、

まずは外人局に行かなければならないのだが、予約は不可能。
電話には絶対出る事はない、と思う。出てもドイツ語対応。

一度目の外人局訪問。
相手にされなかった。次の朝の六時に来いと説明も受けず門前払い。外人局なのに英語も全く通じる事はない。アメリカ人やオーストラリア人も同じような状況で待ち合い室で困惑していた。

日本大使館に行って説明してもらうと、ドイツの外人局はそんなもんだよと、先が思いやられた。

二度目の外人局訪問。
電車で乗り換え三つ、一時間かかる。朝四時半起きで向かった外人局には、なるほどもう列が出来ていた。整理券を取る事ができ、待合室に座った。誰も何が起こっているのか説明できるものはいなかった。それでも五時間後、自分の番号が呼ばれ対応される事に。限られた英語の中で必要事項を言い渡され、もう一度来なさいと言われた。



取得に必要なものは、パスポート、申請書、現金30万円以上持っているという証明書、滞在期間中有効で、歯の治療にも対応した保険に入っている事の証明書、そして住所登録書。

申請書は日本のものは使えなかった。既に出国しているのでエラーになるんです。外人局のサイトでは全部ドイツ語なので探すのも困難。友達に頼んだがそれでも難しかった。結局外人局でもらいました。顔写真を自分で貼付けてください。自分で撮影でしたほうが遥かに安い。サイズに注意してデジカメでやってオケー。

現金所持証明書は、銀行の残金さえ書いてあるものならネットバンクの残高を印刷したものでオケー。

そして保険。日本の海外保険では高額なので、ドイツのものを取得したが、これにも時間がかかった。言葉が通じない事にこれほど苦労した事はない。それでも一年間分で550ユーロ。六万円近く、、、

そして今、待っているのが住所登録。
ドイツでは法律で自分の住所を登録しなければならない住民登録が義務づけられている。たぶん日本でも同じような事があるだろう。これが今までワーホリビザが採れていない理由だ。家の大家さんと住み込みの契約。家主から俺が住んでいる事の証明書。その二つを持って警察署に行き住民登録書を発行してもらうのだ。

それでワーホリビザが取れる。らしい、、、
それでも検査委員の個人的な判断に任されるらしく、いいかげんだ。

とこんな感じです。


とにかく今は暗くなってもしょうがないので前向きに一日を過ごしてます。

2011年10月20日木曜日

イギリスに別れを、、、


ブリストル

元気になってからも、とくに大きな変化はなかった。ブログにギターの練習、アニメを見たり、友達とバーベキューをしたりした。夏は終わりに近づき、天候も悪化する一方。寒さが増したので買い物にも出かけた。ジーンズを購入、着用していたら皆に驚かれた。新しい靴を買ったときも笑われた。ヒッピーな生活はそれにて終了。ウェールズの、とある田舎で二日間のFood festivalもなんなくこなし、ハウスパーティにもいくつか参加。マッシュルームなんかも時にはでてきたり、ゴルフにいったりもした。そして二週間が過ぎた。




ロンドン

旅立ちまで五日間。最後の週末はロンドンで過ごす事にした。今回はテレツコのお世話になってもらう事に。ここではメルボルンで一緒に住んでたイタリア人のマテオとも再会。久々に会う顔に、笑顔がでる。二人でテレツコの家に泊めてもらい、毎晩夕食を共にした。十月の頭、ロンドンでは奇跡的にも晴天に恵まれ、週末は最高気温も27度を上回る季節外れな心地よい日が続いた。一晩テレツコのシェアメイトとインプロでジャムをした。寿司をつくった。できはそこそこ、、、土曜の昼、マテオとCamden town を歩いて回った。その街は個性に満ちあふれ活気があり、買い物をするならおもしろそうだった。
そして夜はフィンとラフ、ジョーがロンドンにきてハウスパーティに行くらしく、連れてってもらった。ロンドンにしては大きなハウスパーティだった。朝まで音楽は続いたが、近所からの苦情もなく楽しく時間は過ぎ皆との別れを惜しんだ。マディーと一緒に裏庭に布団を敷いて朝日を草原で迎えた。楽しかったが、少し寂しかった一日でもある。
昼は皆でピザを食べに行き、それから別れを告げた。休む間もなく荷物を取りに戻る。テレツコとマテオにも別れを告げ、ドイツに向けて新たな旅は始まった。

2011年10月14日金曜日

夏の終わりに ベスティバル

明くる朝、簡単にラフの家族に挨拶をし、早々にフィンの家へと向かった。最後の荷物をまとめ、バンに積み込む。車の中は、はち切れんばかりにいっぱいになり、ドアを閉める事も困難だった。一晩ウェールズで過ごして、ブリストルへ昼頃でかけた。ベンとルーシーも仲間にくわり、彼らの荷物をさらに押し込む。夕食をフィッシュ アンド チップスで軽くすませ、夕方頃、ベスティバル開催地、南イギリスの島、Isle of Wight へと向かった。かれこれ四時間、フェリーの発着地に着いた。フェリーの出発まで一時間、仮眠をバンの中でとり時間を潰し、フェリーに乗り込む。島に到着はしたものの、24時間営業のTesco を探し、道に迷う。一時間以上、迷子になったあと、買い物をすませ、ベスティバルの駐車場に向かった。駐車場に着いたのは朝の四時頃だったろうか、朝の八時にはキャンプサイトに行く事になっていたのでテントも張らず、車の中でまた仮眠を。そして気づくと外は嵐。車が揺れに揺れて目が覚めたのだ。ちょうどこの日、アメリカで被害の出ているハリケーン、アイリーンの勢力がイギリスにまで届いたのだ。冷たく鋭い雨に、響き渡る豪風。その日、ベスティバルへの入場は禁じられた。また車の中で一日を過ごす。リンゴとポテトチップスでは腹は膨らまない。街に出て鶏肉と食パン、サラダを購入。サンドウィッチとバターで一日をやり越し、また車の中でじっと一日を過ごした。

嵐の過ぎ去った次の朝は晴天に恵まれ、少し海風の残る中、一日の遅れを取り戻すため慌ただしくカフェタンゴの建築へと勢を入れた。車から降りると、今まで座り続けて来た体はまるで鋼のようにカチコチに固まり、深呼吸が懐かしかった。皆、イロイロと仕事をしている中、俺はギターを弾き、歌を歌い、皆に音楽を提供した。一日遅れの作業だったがなんとかキッチンは出来上がり、後からやって来たものも含め夕食は作る事ができた。その日は俺とジョーとジョンは雑魚寝して寝て、また次の日朝早くから仕事に勢をだした。

初日、売り上げはそこそこ、今回はピザの他ジュースバーまでも出しているカフェタンゴ。メンバーもかなりの人数がいて外を回る時間ができ、フェスティバル自体を堪能する事もできた。約六万人ほどの参加者がいたらしいがこれもまた大きかった。キャンプサイトの端から端までは目は届かず、数えきれないほどのステージ。なんといってもベスティバルのラインアップはただ事ではなかった。
初日夜は、待ちに待ったSantigoldを見に行った。大きなステージだったので遠くからでしか見る事ができなかったが、その偉大さに圧巻された。何千人という観客が押し寄せてすき間なくステージを見上げている。Santigold の力強い音楽は真っ青なマーキーの中でネオンに輝き、反響によって響き渡っていた。荒れ狂う人だかりの中、皆ともはぐれ、記憶ももがれ、一日は過ぎて逝った。

二日目、開催地に着いて四日が経過しているが、朝起きて持参したインスタントヌードルを作りにカフェタンゴに向かう。その忙しさには驚いた。朝食がこんなに忙しかったのは初めてだ。腹を満たした所で仕事に取りかかりだした。ピザの方は結構準備はできていて、焦る必要はなかったが、朝に比べると客入りが少なく、呆気なかった。暇が開いたので休憩を取りシャワーを浴びにいった。
かれこれ一週間ぶりだろうか、溢れ出る体臭には嫌気がさしていたから祝福の瞬間だった。シャワールームは徒歩20分も離れた場所で、温水の方には行列ができていた。仕方なく真水で浴びたが、さすがに冷たかった。凍えながらもこれとないシャワーには感謝し、心地よくなった体は寒さを感じるよりも、新鮮な空気を吸い込んで、気分は爽快になった。
それから日射しの中、仕事仲間と布団を草原にしいてごろごろし、キッチンに帰った。夕方になるとまた待ちに待った”Danny Byrd” がコンサートをやっているので、友達に頼んで仕事時間を変わってもらった。この時間帯はみんな忙しく、”Danny Byrd”には一人で行くことになった。開催地のほとんど反対側にあったステージには早歩きで40分くらいかかったろうか、Danny Byrdが始まるぎりぎりには間に合い小さなマーキーの中でDanny Byrdは幕を開けた。
壮絶なDrum & Bass が始まると同時に、観客は踊り狂い、モッシュが始まった。自分もかなりいい気分だったのでモッシュに参加する。押し合い殴り合い、力のつく限り暴れ回る。汗が流れる、足が踏まれる、顔が殴られる、それでも中に入り暴れ狂う。誰が始めた事なのだろうか、暴力が音楽によって正当化される。だが誰も喧嘩をしに来たわけではない。その中に憎しみはなく、見る顔皆が笑顔に満ちている。ベース音がフェードアウトしていく。すると皆距離を置き様子を観る。中心には輪ができ、開ききった空間ができた。ベースが帰って来る。予測されている瞬間に、囲まれていた空間に飛び込むようにモッシュが始まる。思うがままに体を動かし、力の限りに音楽へと飛び込む。端から見たら阿呆だろうか?突き飛ばされ、輪からはみ出た。踏みつぶされ、靴が弾きちぎれた。疲れが出て、蒸し暑苦しさが押し押せて来た。40分くらいいたろうか、こじ開けるように人ごみを抜け外に出ると爽やかな風に吹かれ気分は爽快。その爽快感の中、靴はぼろぼろになっていて裸足でカフェタンゴへと帰った。
皆に、Danny Byrdの話を興奮した状態で話し、靴を見せ笑った。それから、時間帯を変わってもらっていたので閉店まで働く事になったが、体の中の興奮は治まる事を知らず、カフェタンゴの中でも大音響に身を任せ、朝の四時まで仕事に明け暮れた。

翌日も同じようにインスタントヌードルで始まり、忙しい一日が始まった。疲れは出て来ていたが皆も仕事には慣れだしていてうまく一日は過ぎていった。この日はDiploDJをやっていて皆で見に行った。Diploもまた最高のステージを演じてくれて、皆でハイになり、カラフルな夜は時間を失い、浮遊間だけが記憶の中に残っている。
途中、仲間と離ればなれになり、出店の飲み物を眺めていると、ジョーに再会。何千人という群衆の中で、驚きは歓喜に変わり、疲れ果てていた体はまたひとつステージを見に行こうと活気に満ちる。皆に合流してカフェタンゴに帰り、皆でラフのテントの中でつぶれるまで飲み続けた。

最終日はいつも。仕事は九時頃には抜ける事ができ、念願のBjorkを皆で見に行った。回りのものはあまり興味がなく、説得に時間がかかった。それでもBjorkが始まってすぐステージにたどり着き、その摩訶不思議な音域に身を委ねる事に。30分も経たないうちに俺の友達は飽きてしまい、場所を変える事になってしまい残念だったが、かなり遠くから見ていたのでしょうがないとは思った。
それからサラの友達Ben Howard を見に行った。アコギとチェロ、二組だけでの演奏はまさに美しく、疲れきっていた体に旋律に流れた。観衆はみんな地面に座り、ステージを見上げている。ゆっくりと体を揺らすものも。目を閉じて見えないものを感じ取っている観客も。まるで静かな海原を漆黒の森林で見つけたのごとく、雄大なメロディーは柔らかく流れていった。
音楽を言葉にする事はおもしろい。意味の分からない事を表現するように、感じ取った事は鮮明さに欠け、辻図間の合わない状況は言語を持たない会話になる。それでいて自己満足的な表現だと言われれば単純にそれだけのものであって、共感をいただこうと書く事はできない。それでも感じた事に対してなるべく正確に、正直に感想を書く事によって、この幻想的な情景は現れて来る。書く事が好きになった理由である。
と、とりあえず、Ben Howard のコンサートの後、気分転換に皆でレスリングをやった。しけた雰囲気と言われれば皆静まり返っていたのは確かだった。暴れに暴れた。ベンに腕十時を決めたときは歓声が上がり面白かった。それから小さなマーキーでエレクトロを聞き踊り狂い、醒める事なくまたラフのテントで皆で風船を飛ばして遊んだ。

月曜日、目が覚めるとそこはまるで別世界。ほとんどの参加者達は帰路に着いたのかあたりには人影はなかった。代わりにその光景は暴風によって飛び交う無人のテントによってあたかも違う惑星にでも来たのかと、一瞬錯覚した。荷物を失ったテントは軽くなり、転がるたびにまた一つ、また一つと巻き込みながら飛んでゆく。大木は色とりどりにテントで着飾られ、防風林は風よけよりも、ゴミだめとして外に被害のでないよう堤防のように立ちはだかっていた。暗くなるまで撤去作業は続き、夜中10時過ぎ、ブリストルに向けて帰路についた。
真夜中の高速は直線に長く、道路上の暗闇に並ぶ反射光は転々と永遠に続いていく。淡々とした車線に高速で走る車の中は眠気と疲れを猛烈に運ぶ。変わる事のない景色に、前進しているのかさえ疑惑さえ出て来る。不思議と動いている車の動力に魔力さえ感じ、まるで魔法の絨毯にでも乗って、魔法の世界にでも方位をとっている気さえした。現実と夢の最中で呼吸の音に耳を澄ませ、途切れる閃光の先に時空の旅をする錯覚を見た。万国博覧会の建築物達が辺り一面に現れて来る。運転をしていたはずのラフと隣に座っていたはずのオリーが道化化して飛び回っていた。暗いはずの夜空に眩しい光が入って来る。もっと奥まで行けそうな気がするけれども、その先には行ってはいけない場所があるような妖気が漂い躊躇という判断力が邪魔をする。朗らかな音楽が流れ出しサーカスが始まった。そこにはもう想像と呼べるよりもはっきりとした、楽園が走行中のフロントガラスには映っていた。
ふと目が覚める。ラフのだいぶ疲れが出てたようで、休憩所に一時停車、爆睡していた。休憩後、午前六時、ブリストルに到着。無事の生還と、ちゃんとした布団の中に入ったときの感動は今でも心に残る。

それから三日間は蜘蛛の糸が切れたようにだらりと垂れ下がり、枯れた植物のように水分を吸い上げる力もなく、ゆっくりと冬眠する熊のごとく体の回復に時間を費やした。




ブリストル

元気になってからも、とくに大きな変化はなかった。ブログにギターの練習、アニメを見たり、友達とバーベキューをしたりした。夏は終わりに近づき、天候も悪化する一方。寒さが増したので買い物にも出かけた。ジーンズを購入、着用していたら皆に驚かれた。新しい靴を買ったときも笑われた。ヒッピーな生活はそれにて終了。ウェールズの、とある田舎で二日間のFood festivalもなんなくこなし、ハウスパーティにもいくつか参加。マッシュルームなんかも時にはでてきたり、ゴルフにいったりもした。そして二週間が過ぎた。


2011年10月11日火曜日

ウェールズにて


三日間も寝込んだ後、調子よくなって来たという最中、ウェールズでレイブパーティーに招待された。全く持って圧倒される。ラフの友達の親戚かなんかで、40歳になる誕生日パーティーだと。親戚同士のパーティーだと期待せず、あまりはしゃぐ事もないだろうと、とりあえず行ってみる事にしたがこれまた文化の違いに驚かされる事になった。人の住む所から人里離れたその叔父さんの家で行われた、ハウスパーティー。まずは駐車するためのフィールドの広さ、そして牛小屋丸一つ、が、ばかでかいステージと化し、トンネルのように続くレンガ製の小屋が、ひとつの社交会場とでも言おうか、そしてばかでかいたき火、面積に驚かされる。これが個人の持ち得る土地だろうか。ステージもこだわって作られており、ライブにコメディー、ヌードショー、こだわりがある。誕生会だけにしては規模が大きすぎる。フィンの父や、ラフの母まで来ていて大音響の中、楽しんでいた。そこにはフェスティバルで会った友達もいて、うまく馴染め楽しんだ。みんな仮装していて、荒れ狂うライブの中レイブは朝まで続いた。イギリス本場のパーティーを学ばされた一つの行事である。

それからラフの家に泊めてもらう事になり、ウェールズの広大な大地を車で走った。狭く、曲がりくねった道を時速100キロは簡単に出してしまうイギリス人。事故が少ないのが信じられない。よくレースをこの道でやったんだと安心させているのか、自慢しているのか、加速する車はラフの家に無事に着いた。イタリア人のラフの母は陽気で面白かった。家はまるでジブリの世界にでも出てくるような古風で大雑把。至る所から、鍋や食器がぶらさがっていて、大木で天井から柱まで落ち着いた雰囲気を出している。サニールームもあり、今まで見た家の中で一番気に入った家だ。文化遺産になっても全然不思議のないくらい、あまりにもいい家だった。その家に泊めてもらう事になり、夕食もごちそうしてもらった。そして、またラフの部屋にも驚いた。屋根裏部屋のような造りで、完全な木造建築。窓が大きく、とても住み心地が良さそうだった。いつかはこんな家に住んでみたいなと、夢に自分の将来の生活を描いてみたこの頃である。

2011年9月21日水曜日

シャンバラフェスティバル


ブリストル

やっとの思いで帰って来た家は懐かしく、静かな生活が始まり、ブログやギター、絵など描いて過ごした。ベルリン行きの航空券を購入。一ヶ月後にはイギリスを発つ事にした。シャンバラフェスティバルのチケットも購入。旅の帰りから三日後にはまた混沌が始まる。じっくり体を休める事にし、三日間は家の中でゆっくり過ごした。




シャンバラフェスティバル

初めてフェスティバルのチケットを自分で購入、ただではない、、、 約17000円ほどのチケットだ。高いと思いながらも多くの友達が参加、お勧めしたフェスティバルだったので行ってみる事にした。それと初めてフェスティバル中働かなくていいので、一日中フェスティバルを楽しむ事ができる。このフェスティバルの開催地は開催日まで秘密、全てのパフォーマーもアナウンスされておらず、いったいどんなものなのか気になった。金曜の昼頃、ラフの車に乗せてもらって、フィンと三人で向かった。迷子になりながら三時間以上かけて到達。冷たい雨が開催地で俺らを迎えた。チケット代を払っているので、かなりショックだった。雨の中荷物を運ぶ。今回はカフェタンゴがないためサイト内に車を入れる事ができない。遠い道を大きなバックにテントを持ち運んで、雨の中歩く。寒いし暗い、荷物が重いし多い。雨の中テントを張る。夕方はタンゴの仲間達に合流してテントの中で寒さをしのいだ。雨に風、夜、少しフェスティバルを歩いたが、空腹のせいもあり早めに寝にいった。

早めに寝たせいもあって、翌朝はまだ友達皆が寝てる間に起きた。一人でフェスティバルを歩き出す。この日の朝は少し青空に恵まれ、心地いい散歩日和となった。今までのフェスティバルで中くらいの大きさだろうか、一時間ほどあれば全て回れるほどの広さだが、あちこちでいろんなイベントや、珍しいハンドクラフトのお店、雰囲気のいい広場に、雑木林に隠れた通り道、潜水艦の浮かんでいる池、ウロウロしている間に時間はあっという間に過ぎていった。午後、テントに戻り皆と合流、それからフィンと歩いて回り、カレーを食べて、雑木林の中にあるステージでハープのコンサートを見た。ギターと、ハープだけのコンサートの音色は、その森林と一体して美しく、ステージは大きな木の上に建てられている家で創られていて、そこの大きな窓からの演奏となり、まさにおとぎ話の中の世界だった。夕日の暮れる頃、メインステージに向かい皆と合流し、Correspondentのコンサートを見た。エディンバラで見たときの何倍ものステージで踊っていたCorrespondentはさらにおもしろかった。その後少し間が空き、Lamb が登場する。lambのコンサートは今までの人生で立ち会った中で最高のコンサートになった。感動した。Trip-Hop の音はそこにいる全ての観客を飲み込み、揺れていた。皆で輪になり、抱き合い、目を閉じ、一つになった。体の中をLambの音が響き渡っていく、何も見えなくなるほど目を閉じた。感覚だけが音を拾っていき、足踏みの感触だけが体に伝わってくる。音楽をここまで愛する事があるだろうか?祝福に満たされた自分を見つめる事に酔って、音楽の素晴らしさに直面する。神様が実在するなら、きっとその人は音楽家だったに違いない。誰かが言ったような気がするが、まさしくその通りだと同感した一時間だった。目が覚めるように終わってしまったライブは、まさしく夢のようだった。それからシャンバラフェスティバルを着飾るように大きな木馬の建物に火が灯された。高さが、だいたい5メートルほど、長さは10メートルはあったろうか。灯された火は一気に燃え上がった。体が熱くなる。10秒もしないうちに爆発的に広がった光は何十メートルにも登り、そこにいた観衆を脅威に脅かした。遠くにいるものはもっと近くに行きたくて押し合い、近くにいるものは炎の熱により恐怖し、外に逃げようと混雑は混乱を生んだ。一番前にいた俺らも、熱さに驚き、結構慌てた。その後、皮肉にもKamikazeと呼ばれるステージでDrum & bass のコンサートは始まった。ラインアップは忘れてしまったが、好きなジャンルに体は動いていく。一日の始まりはそれからなのか、夢から覚めた後も凄まじいベース音が体を流れていく。小さなダンスステージにみんな集まった。そこに登ると、その会場全てが見え、歓喜によってDJに吸い寄せられる観客の動きが点灯するライトによって照らし出されていて、それはまるでストップモーションフィルムのようにこまごまと動き、あたかもまた夢のように現実は動いていた。光のテンポが遅くなると、ひとこまひとこまの間が大きく開き、人の動きがゆっくりと感じられ、まるでスローモーションの世界に飛ばされた気がした。朝の三時くらいになったろうか、Kamikazeは記憶にとどまる事なく終わってしまった。すると仲間がまだ隠れステージがあると言い、柵をこじ開ける。なるほど、そこには細く、長く、また道ができている。不思議の国にでも行くようにして、通りを抜けると、そこには小さな会場があり、パトカーをステージとして作り上げてあり、DJがおまわりさんの格好をして、音楽を流していた。イギリス人のユーモアだろう。つい二週間前にロンドンであった暴動をもうネタにして音楽をかけている。パフォーマンスもなかなか凝っていて、暴動者の真似をし、パトカーに体当たり。するとおまわりさんが出て来て一網打尽に暴動を暴力で解決する。身近なニュースだったので結構笑えた。空を見上げると、晴天の漆黒に星が何千と輝き煌めいている。空を見つめていると、流星が一瞬に輝く空を流れていく。空に吸い込まれると、現実の世界から遠のいて意識が離れていく。気がつくと空は明るくなりだしていて、星の数は消えていった。朝日の登りだした頃、皆でキャンプサイトに帰り、ラフの大きなテントの中で、パーティは次の日の昼まで続いていった。

最終日の日曜がやってきて昼過ぎにテントから這い出る。すでに音楽がどこからともなく聞こえて来る。となりのテントに泊まっていた人に、ガスストーブを借り、持って来ていたインスタントヌードルを温める。スープはいつでも二日酔いにいい。醤油とニンニクを分けてもらって、少しマシになったスープをすすると、少し元気になったが体は重い。テントに帰りまた一眠り。結局夕方近くまで寝てしまったのか、そこらへんの記憶はあまり残ってない。それからライブを皆でいくつか見た後、ブリストル出身のバンド、Disraeli and the small godsを見に行った。いい音を出してはいたが、あまりにも混雑し過ぎていて、踊ることもできなかった。そうして、フィナーレの花火が始まった。池を挟んで見える花火は昨日の木馬の火玉のようには熱く燃えず、豪快さにかけた。それからまたKamikazeに戻り、Drum &Bassを聞きにいったが、同じ事の繰り返しに見えたステージはケミカルに欠け、単調に過ぎた。最終日がこんな風に終わってしまったのは少しがっかりだったが、土曜があまりにも最高の組み合わせだったからかもしれない。マーキィーで行われていた映像と音楽のライブで最後のライブとなったが、疲れのせいか、その光り輝く天井の幻惑的な芸術さえも、ただの白黒映像に見えてしまい、素っ気なかった。それが終わった後、皆でテントに帰り、夜を語り合い、いつの間にか夢の中へと堕ちていった。

気がつくと昼は過ぎ、回りのもの達はテントを終い帰りだしている。今回はカフェタンゴがないので、普通の参加者と同じ時間にフェスティバルを出なければならない。俺らの仲間はまだ寝てるものもいたが、まだはしゃいでいるものもいた。元気なものだ。辺りを見回してみた。捨てられたテントや、ありとあらゆるゴミでその場はまるで別世界。すっぽりと開いた空間に取り残された空き瓶のように存在する自分に覇気を入れ、荷物をまとめだし、皆に声をかける。しゃくれた声で皆と会話し、かたずけを始めた。記憶の中には早送りに見える記憶も、その場にいたときはまるで一秒が永延のように感じられ、かたずけにどのくらい時間を費やしたのか疑問に思う。車を運転するラフの体力に感動し、安全を願いながらもぐっすり眠ってしまった。ブリストルに着くと早速パブに向かう、皆との再会、疲れきった体にもう一あおりビールを入れ、楽しかったと話をした。全く持ってイギリス人の体力には圧倒された。

次の日からまた次のフェスティバルに向け準備があり、ウェールズに向かったが風邪をこじらせ三日寝込んだ疲れが出たのだろう。フィンはしっかり休んどけと、一人準備に張り切っていた。ラフも手伝いに来て働いている中、俺はガッツリ寝込んだ三日間だった。

2011年9月18日日曜日

三度目のロンドン観光

セシルの朝九時のロンドン発、フランス行きの出発に合わせて、朝四時に起床。眠い頭にコーヒーを流し込む。ジャックに別れを告げセシルの車で、フレドリックとロンドンに出発。早朝五時にロンドンのビクトリア駅に到達。駅で地べたに寝転がり、数時間の睡眠を取りさらにマクドナルドで仮眠を。11時にフレドリックはノルウェー行きの飛行機に乗るため空港に向かい別れを告げた。俺はロンドンのハイドパークの近くにあるバッパーに向けて歩き出した。その後、シドニーで一年間一緒に暮らしたテレーザと六年ぶりに再会。懐かしい友達に会い感動した。その日はその子の所で夕食をごちそうになり、泊めてもらった。この六年間の話や、シドニーでの生活、ロンドンの生活について盛り上がった。

次の日の昼、中国で旅をしていたときに会ったアンソニーにボンドストリートで会い昼食を共にし、ロンドンの中心街を観光した。

ロンドンに来た目的は俺の母が観光に来るからだった。通訳と観光案内、それから久々の再会をかねて、自分もロンドン観光をしようとやってきたのだ。夕方七時に母から連絡がありホテルに着いたとの事。ホテルまで迎えに行き、無事再会を果たした。その日は、母をモロッコ料理に連れっていってやって(ごちそうにありついて)ワインを共にし、自分の旅路や、家庭の話で盛り上がった。

母に朝九時に電話で起こされ、騒々しい観光が始まった。まずはハイドパークを横切ってボンドストリートまで散歩をし、そこから母の目的であった、リバティーという店に入った。その店の建物は1924年に二つの軍艦を解体して創られたそうで、独特で、店内の装飾もこだわりがあり、中を歩くだけでもおもしろかった。それから昼食をパブですませ、徒歩で街を観光、SOHO通りを歩き、テムズ川に向かい、船でゆっくりとロンドンブリッジに向かった。夜はシアターに行き、ビリーエリオットというミュージカルを見に行った。いろんな人から勧められていただけあって、そのショーは感動的だった。英語のわからなかった母でさえ感動していた。メインの子役とそのサポートの子役がとてもいい役をしていておもしろかった。それから母とパブに飲みに行き、結構一緒に飲んだ。

次の日は朝早くから母がフラワーアレンジメントの習い事がありつき合わされた。電車に乗りロンドンから約三十分南に離れた田舎に向かった。広大な丘に囲まれたきれいな街にたどり着き、フラワーアレンジメントの先生に迎えに来てもらい、街を案内してもらった。もう一人日本人の女の子も講習に参加していて三人で講習を受けた。花の使い方は意外におもしろく、楽しい教習となった。先生の家はとにかく豪華で、庭も広くきれいだった。教習の後、四人でティータイム。おいしい紅茶と、ケーキでお腹はいっぱいになった。ロンドンに帰り、まだ明るい午後の街で夕食を探しに歩いて回り、母に感謝しながらイタリアンレストランでラザニアをごちそう。日が沈むと母はホテルに、俺は前ロンドンに来たときにつるんだ友達と飲みに出かけた。この日から右の手の中指が腫れだしていた。原因はわからなかったが膿みが指先に溜まり痛かったため、この夜切り開く事を決断。カミソリに消毒ガーゼ、カットバンを用意。それからヴォッカを一本。皆で騒いだ深夜、路上でオペは開始された。フランス人のジェズに頼み中指を差し出す。ジェズが主治医、スペイン人のパウラが看護婦となり、お医者さんごっこは本格的に?始められた。消毒を終え、すぱっと切られた指からはドロドロの血液が流れ出た。結構痛かった。皆が消毒の手伝ってくれた。酔った上、わめいた。血液を失った。そして路上で弾き語りを始めた。騒々しい一日はまたも慌ただしく過ぎて行き、楽しい一日は一つの思い出として残った。

早朝に母に電話で起こされ、公園で会い、中華をごちそうになった。それからは血液不足と二日酔いで、その日は観光する気になれず、俺は公園でのんびりと時間を過ごす事に。母は買い物に出かけた。数時間晴天のもと公園で昼寝をしたあと、母が買い物から帰って来てうれしそうに買ったものを披露してくれた。夕食を共に、またイタリアンをごちそうになり、感謝感謝しながら海鮮パスタを注文。ワインにオリーブと食べ、豪華な食事は食卓を着飾った。それからまた友達に会い今度は公園の中で飲む事になった。皆で閉じられた柵を乗り越える。真っ暗で静かな公園の中に俺らの笑い声だけが響き渡る。池のそばまで歩き、地べたに座り込む。そこで飲みだした。他にも人が飲んでるようで笑い声が遠くから聞こえていた。ギターを取り出し気ままにコードを奏でる。適当に歌詞をつけ皆で歌った。ひっそりした森林に囲まれた公園の端から流れるメロディーが、酔いとともに空気を盛り上げる。暗さに隠れた皆の素顔は、薄らと月明かりに照らされていて、笑い声だけがはっきりと伝わって来る。星明かりが普段より数段明るくきらめき、小さなその場だけの世界観が生まれ祝福は深夜まで続いた。

夢から覚めた後、21人部屋の小さなベットの上で、いったい何が起こったのか一瞬迷った。母からの電話がなり現実へと振り返る。チェックアウトを済ませ、公園へ出かけ二人で散歩をした。フラワーガーデンを歩きアイスクリームを食べ、ベンチでゴロゴロと。ホテルまで見送りをして母は日本へと旅立った。ボンドストリート、ロンドンブリッジ、SOHO、ビッグベン、観光船、レストラン、などなど、観光者になりきった週末だった。それからバスでブリストルに久々に帰る事にし、友達に別れを告げ、帰路へと落ち着いた。

2011年9月14日水曜日

ブライトン


エディンバラから夜行バスで約10時間半、ロンドン経由で朝の9時にブライトンに到着。久々の長旅で、眠気の残る頭と、座り通しの腰の痛みをずっしり感じる中、海際のバス停で海風とともに朝を迎えた。ブライトンはエディンバラとはまた違った雰囲気をかもちだし、観光の街として賑やかだ。それにイギリスの南海岸に位置するこの場所は、まだ温かく、久々に心地よい晴天を迎えた初日から、俺をいい気分にさせてくれた。ここにはオーストラリアでシェアをし二年間一緒に暮らしたフランス人の友達セシルに会う目的で来た。その子と友達のジャックに迎えに来てもらい。ビーチでコーヒーを一杯。ビーチと言ってもブライトンのビーチには砂がない。代わりに丸石がごろごろしている。それに温かいと言ったが、それはエディンバラと比べててあって、さすがに泳ぐ気にはなれなかった。車でジャックの家に向かう予定だったが、駐車しているという所に行くと、セシルが借りていたレンタカーがそこにはなかった。駐車禁止の場所に停めていたのだ。レッカー車に持ってかれたらしく車の後はそこにはなかった。近くにいた警察の人に事情を説明、どこに連絡を入れるのか聞き、電話、持ってかれた車の場所を聞き、まずはストレス発散のためビールをパブで。それからバスで車を取りに行き、初日の観光は終わった。セシルは140ポンドの駐車違反料金を払わされ、動揺を、俺はちょっぴり責任感を感じ辛かった。その夕方、オーストラリアで会ったノルウェー人の友達フレドリックを迎えに夕方空港に向かった。ジャックの親元の家に泊めてもらう事になり、その家族にお世話になってもらった。夜、四人でいろんな事を話し、楽しんだ。寝床は四人一部屋。文句を言える立場ではないが狭かった。フレドリックが床で、セシルとジャックと三人でベットを共有し、深夜は騒がしく過ぎていった。

明くる朝も晴天、心地よい一日は遠くから聞こえる騒がしい音楽によって始まった。エディンバラで聞いてはいたが、ブライトンはヒッピーとゲイの街。その日はブライトンの一年で最も大きなパレード、ゲイパレードが開催されていた。大通りに向かうと、そこには大行列。街中が色とりどりに飾られていて、いろんな音楽があちこちから聞こえる。何百というオカマさんやレズビアン達が派手な衣装に身を纏い、大名行列のように通りを歩き、バスからパトカーまで仮装され、パレードは数時間と続いた。その後ジャックの友達に会い一緒に公園でビールを交わした。夜はみんなでパブに向かい、一日が過ぎて行った。

次の日も晴天。ブライトンの天候は他の場所と比べてもなかなか安定していて過ごしやすい。皆、疲れが溜まっていたせいか、この日はまったく外に出る事なく、ジャックの家の庭で一日のんびりと過ごした。

晴天から始まった次の日はビーチに向かった。泳ぎに行くつもりだったが、ビールを片手に心地よかった昼時は過ぎ、曇り空が海からやって来た。風も強くなり、冷気が肌を突抜ける。セシルとジャックが車の移動と、仕事の話で街に出て行った。俺とフレドリック二人で帰りを待っていたが、風が冷たい。凍えながら待つのも厳しく、パブに入る。二時間ほど経った後、二人が帰ってき俺らに動物のコスチュームをプレゼントしてくれた。俺は猿、フレドリックはデビル、セシルとジャックは虎だった。早速、着替えると温かかった。コスチュームをきたまま街に向かうと、回りの人たちからおもしろがられ、手を振ってきたり、挨拶された。そのまま街を少し観光して、ジャックの友達の家に向かった。それからその友達に晩飯をごちそうしてもらった。鶏の丸焼き四匹に、ローストベジ、うまかった。夜中の三時くらいまで騒ぎ立てて、音楽や、ハンドクラフト、ヒッピーについて語り合った。

次の日、ジョンが俺らを訪ねに来て、またビーチへと向かった。その日も天候には恵まれず、曇り。数時間ビーチで時間を潰した後、街を観光。皆で映画ハッピーフィートを見て一日は過ぎて行った。

2011年8月30日火曜日

フリンジフェスティバル エディンバラ

 ブリストル

次の日は友達とセントアンドリュー公園にバーベキューをしに行った。疲れきった体を公園の芝生で休め、一日中ぼんやり過ごした。火曜の午後だというのに、その公園は家族ずれや若者で賑やかだった。




エディンブラ

飛行機の予約をかなり前にしていたので、こんなに忙しくまた旅が始まるとは体にもたれた。ジョンに空港まで送ってもらい、また新たな旅路へと足を運んだ。
一時間前だったがそれは国際便だった。いちおビザがいらないし、貨幣も同じ、バスでも行ける場所なのにそこはスコットランド。甘く見ていた。添乗員に間に合わないから走ってと。慌ててゲートをくぐるにもそこには大行列。警備を通り越すとチケットに書いてあったゲートナンバー”6”に向かう。目の前だったが、場所が変わっている。全く正反対の場所となり20分も空港を走り回った。最後の乗客となったが間に合った。飛行機は時間通り出発。危機一髪だった。

空港からバスで街に向かう。世界遺産にも指定されているその街の光景は圧巻だ。城壁に囲まれたお城が堂々と高台に建ち、並び行く街の景色は落ち着いた色の石段で固められ、何百年という歴史を感じさせてくれる。

ここで疑問だが、日本人でコーチサーフィン (Couch Surfing) を知っている者はどのくらいいるのだろうか。これはインターネットサイトの事で旅人の中では、むしろヨーロッパではかなり知名度の高いサイトだ。旅をする者にとってはお勧め。その仕組みとは、メンバーになった者どうしで宿泊先を提供したり、されたり。行く先々で泊めてくださいと赤の他人に頼む事のできるサイトだ。宿代はとても高い。とくにヨーロッパは。着いたとしても何をしたらいいかわからない。隠れた名所や、地元のパーティーなどに参加できたり、観光とは違った経験ができる。そうやって旅人通しで助け合ったりできるサイトがある。エディンバラではちょうど街中でフェスティバルが行われていたので、なかなかあてが見つからなかったが、幸運にも最初の二日間だけ泊めてもらえる場所を発見した。予定は9日間滞在、とりあえず考える事は後にしてエディンバラに到着した。
街に着くとコーチサーフィングのホスト、リトアニア人のヴィクが迎えに来てくれた。家に案内してもらい荷物を預ける。おしゃれなカフェに連れてってもらってその日はなんかく過ぎた。

次の日ヴィクは仕事を探しに出て行ったので一人で街を探検することになった。それにしてもスコットランドの天候もかなり悪い。夏だというのに寒く曇りのち雨。街が石造りなだけ、よりしっとりした感じが気分を襲う。しかしながらエディンバラの街は英国の独特の雰囲気により、天気もさながら散歩をしたくなる。迷い込む道にはいつでも、おとぎの世界に連れてかれるような路地や、トンネルがあり気分が高くなる。勧めによって国立博物館を訪ねる。かなり広く迷子になったが、英国の歴史や、新しい技術などの展示物を見てかるく二時間が過ぎた。それからさらに数時間歩き、迷いに迷った末、ヴィクの家に辿り着いた。簡単に夕食をすませ、目的だったコレスポンダントのコンサートに向かった。Voodoo loungeで深夜から始まったコンサートは感動的だった。舞台裏にまで行きパフォーマーとも挨拶を。朝方までエレクトロスウィングの音で踊り明かした。意外にもここで一人日本人とも出会い次の日お茶を共に。

この日からは泊まる場所が確保されていなかった。ホステルを見たが十四、五人部屋で一日30パウンド近く、とてもじゃないが払う気はしなかった。考える事は後にして街に向かう。その日からは世界最大規模のパフォーマンスフェスティバル、フリンジフェスティバルが開催されていて街中が、観光客と路上パフォーマンスによって埋め尽くされていた。天気も青空がときどきあり、街はとても賑やかだった。コメディーショーをいくつか見て、夜はボンゴクラブへと足を向けた。その夜のクラブのテーマはConfusion is sex。みんな派手な服装やFetishなドレス、オカマさんや、レズビアン、下着のみの人たちから、妖怪にいたるまでいろんな格好で盛り上がっていた。幸運にもDJの人らと仲良くなり、ビールをおごってもらったり、CDをくれたりしてくれた。ダンスホールにはストリッパーからパフォーマー、ダンサーにシンガー、いろんなことが起こっていた。怪獣と妖怪にはばかれたホールを抜けるとステージには恐ろしい化粧をした化け物が踊っている、光り輝くミラーボールが曇りきったホールを突抜け、踊り狂う猛獣達を瞬間的に照らし出す。飾り物によって創られた人格の正体は、社会に隠された個々の本性をあらわに曝しだし、暴露された煩悩は狂喜に掻き立てられ、そこにいる者達は自分本来の姿への快感に満たされていた。ハウスパーティーにその後向かい、宴会は次の日の昼まで続いた。

誰の家ともわからず迎えた夕方は、パーティーの跡形だけを残し、静けさが部屋を充満していた。その家に住んでいる人に会って、もう一度挨拶。泊まっていいかと聞くと、今からロンドンに五日間仕事で行くから部屋を使っていいよと、快く引き取ってくれた。もう一人のシェアメイトも起きて来て、挨拶。仕事に行くからと出て行ってしまった。人がいいのか、信じられたものなのか、一週間の住み場は幸運にもそこで落ち着いた。とりあえず二日酔いの回復のためその日は一日中だらだらと過ごした。

次の日も雨。かなりの雨の勢いだったので家で、ギターを弾いたり、ブログを書いたり、絵を描いたりして過ごした。

少しばかりの青空と、温かい紅茶で迎えた次の日、街にフェスティバルを楽しむため向かった。友達がブリストルからエディンバラまで遊びに来るという連絡もあり、その日の予定は決まった。オーストラリアからの知り合い、カーラと会い、その友達ピートとメーガンと街で会い、Old city New town の間にある公園で一時間ほどのんびり過ごし、その日の予定をたてた。オーストラリアからのコメディアンがいくつか来ていて、それを見に行く事になった。街は青空が垣間見えるおかげでストリートパフォーマーや音楽家によって賑やかになり、歩き行く観光者たちによって路上は埋め尽くされ、活気に満ちた街に戻り、愉快な一日が始まった。なににしろ、世界最大規模のパフォーマンスフェスティバル、街中がフェスティバルの会場と化しているので、その範囲は相当広い。ウロウロしたあげく、一つパフォーマンスに遅れ、走ったあげく、入場を却下され、5ポンドのチケットは一つ無駄になくなった。でも皆で久々の運動だと笑い、次のショーからは気をつけようと、それからは事前に場所の確認をするようした。いくつかのショーを見た後、日本で5年間コメディーをした事があるというオーストラリア人のDave Eastgateに会い、話をしたあげくただ券を二枚くれた。カーラと見に行く事にし、時間を潰した後、見に行ったショーはそのフェスティバルの中で一番おもしろかった。それから何杯かビールを共にし、一日は楽しく過ぎた。

次の日も四人集まり、街を回り、コメディーショーを楽しんだ。その夜、カーラ達は次の日の出発が早いからと、夕日とともに寝床に帰り、俺も家路につき、サディックに電話をすると待ちに出ていて、ショーを見ているという。鍵を持ってなかったので一人では帰れない。とりあえず中心街に向かいサディックを待つ事にしたものの、どこにいるのか、いつショーが終わるのかもわからない。すると突然、目の前にサディックが驚きながら、今、途中休憩だといい、ビールを片手に現れた。たぶん中に入れるからと、ショーに連れていいてもらうと、警備員がいたがどうどうと通り侵入成功。ショーが始まっていた。驚いた事にそれはオカマショー。たくさんのゲイがパンツ一丁で踊ったり、曲芸をしていた。しゃべりもおもしろく、笑えた。ただ少し行き過ぎた場面もあり、驚きに圧倒された。それから二人で、Cabaret Voltaire venueに向かい、Drum & Bass のコンサートを楽しんだ。
迎えた次の日も雨となり、ブログやギターに時間を潰し、Brighton への旅路へと準備をした。あっという間に過ぎた、九日間だった。

2011年8月24日水曜日

ウーマッドフェスティバルの経験


休む間もなくフィンに呼び出された。後、一日は休めると思っていたがブリストルに帰って次の日からウーマッドフェスティバルの準備に必要だと呼ばれた。電車で途中まで向かいジョンに車で迎えに来てもらった。途中夕食の買い物のため小さな町に立ち寄った。イギリスの地方はとても古風で落ち着きがある。建物をそのまま残し伝統的な雰囲気を壊すまいと地域の人たちが力をいれているからだ。夕日を前に紅く染まる、どことも名の判らない小さな通りは、時代を超えてそこに存在し、自分が誰なのかを問いて来た。答えを知る事もできない自分に価値観を失わないように目的を持ち、その先へと旅路を進める旅人の絵を自分の中に描いた一瞬だった。
開催地に着くとフィン、ジョー、ラフがすでにカフェのマーキーを建て終えていてほっとした。労働作業は今の俺にはきつかった。夕食を終え、明日に備え早めに寝る事にした。

早朝から忙しい日々が始まった。俺の仕事はアート部門、好きな仕事だから楽しかった。皆がキッチンの整備をしている間、看板四つの絵や、フォントの修正、そしてカフェのフロントカバー。約、縦1.3メートル、横6メートルの大きなベニヤ板。フィンは、なにか描いてくれと題材はほぼ自由。ただし、制限時間は一日間。慌てながらもデザインを考慮、残されたペイントをどう使うかなどで悩みながら、夜中10時頃、全てを終えた。傑作とは言いがたいが皆満足してくれてほっとした。ヴォッカを少し嗜み忙しかった日は日暮れとともに過ぎていった。

目標売り上げはピザ200皿。今までのマイナスをプラスにするには今日それだけの売り上げをしなければならない。明日、明後日の金土曜は400から500を売り上げてプラスになるかならないか。ビジネスとは大変なものだ。全ての材料の計算から、一食分への配当を決める。今回はメインステージの真っ正面、勝算はある。問題は仲間が仕事をやりこなせるかにかかっていた。出勤時間の二時間前から仕事を楽にするため、俺とラフ、ジョンで準備にかかる。空腹と好奇心でお客が外をウロウロしだした。ピザはいつ始まるのかと聞かれだした。開店の一時までまだ二時間。万全を期して準備を整える。俺はピザ全ての責任を任されていたので責任は重大。間違いのないよう、売り切れや、売り残りのでないよう、皆を指導する。ピザの薪オーブンの温度が350度を超えた。予想以上の客の引きで開店時間を15分早める。悪くない始まりだ。軽やかなドラム&ベースのサウンドの中、回りくる注文の数にリズムを刻み、皆で踊りながらピザを作り回した。時間はあっという間に過ぎていく、ピザは止まる事なく、オーブンへ運び込まれ、香ばしい香りとともに流れ作業のもと外へ出て行く。日はいつの間にか西の空に傾き、空腹とともに時間が過ぎていった事に気づく。フィンが売り上げの数を数えて来た。それは目標の約二倍、400近くピザを売り上げた。フィンも皆も大喜び、早めに店を閉めて、皆で飲みに出かけた。フィンが皆にビールをおごり、明け方近くまで祝福は続いた。

翌日は皆二日酔いで苦しそうだった。ゆったりと朝食にかぶりつき、目を覚ます。硬くなった体を精一杯伸ばして、体を馴染ます。テンポのいい音楽をかけ、気合いを吹き込む。今日と明日は昨日の倍、忙しくなくてはならない。予定より一時間も遅れて開店したカフェタンゴは、行列によって迎えられた。何時間続いただろうか、トイレに行く暇もなく、一服する事も、ため息もつけない。ふとラフを見ると同じように手を動かす様が、まるでロボットのように見えて笑えた。音楽はアップテンポをかけっぱなし、足腰が痛い。気がつくと日は傾き、仕事中でも酒をあおりだした。ヴォッカの力を借り、夕食に並ぶ行列との格闘。売り上げは既に目標を超えていたが、止まる事を知らないお客は次から次へと。皆は疲労から笑いが、フィンは収入から笑みが。流れる音楽も止まる事を知らずさらに速くベース音を響かせるようになる。酔いが皆に回りだした。キッチンの中はもうパーティー状態とかして来て、皆暴れだして来た。驚喜の中、確実にピザは売れていく。客もこれだけハッピーなキッチンを見た事があるだろうか。ピザが空を舞う。音楽が生み出した驚喜にかられてカフェタンゴは揺れていた。今までいろんなキッチンで働いたがここまで弾けた場所はここをおいて他ならない。楽しかった。売り上げは期待の二倍、700枚以上ピザが飛んだ事になる。一分一皿近く売り上げた計算になる。よくやったと少し感動。疲れきった体は倒れ込み、ラフとジョーに運んでもらい床に着いた。

最終日、疲労も最高潮。眠気が波のように押し押せてくる。晴天に恵まれたおかげか回復は早く、音楽とともにまた体は動き出す。そしてまた行列の嵐。仕事内容は同じように流れていったが、皆の手伝いもあり日曜は少し楽になった。10時ぐらいだろうか働きどうしだったのでフェスティバル自体を楽しむためカフェをほったらかしにして遊びにでた。コンサートを見に行ったり、辺りを見て回った。ジョーとラフ、マーラとでアトラクションの場所にも行った。まるで子供にでも戻ったように皆ではしゃぎ、回るブランコや、上下に回転しながら動く乗り物に乗って遊んだ。大人になってからでもこういったものは楽しいものだ。子供のようにはしゃいだ夜は、まるで子供のように床につき、夢の中へと意識を深い眠りの中へと連れてってくれた。

同じようにゆっくりと目覚めた朝は、汗だくになり、自分がどこにいるのだろうかと疑問に溺れる。テントから這い出てゆくと眩しい太陽が現実を照らしていた。かたずけを朝食とともにだらだらと体を働かす。五時間かけてカフェタンゴは跡形もなく消えていった。夕方ブリストルにジョンと戻り、パブで皆と合流。一二杯、飲んでインドカレーをテイクアウェイ。辛かった。

2011年8月18日木曜日

ロンドン観光?

ロンドンに行く決意を。水曜の午後、やっとの思いでロンドンに行く決意をし晴天の中また独り歩き出した。旅の自由は俺の足を止める事をやめない。路上に立ち、親指をあげる、ヒッチハイクは始まった。なかなか止まってくれない。それでも六時間かけて七回のヒッチハイクを繰り返し目的地のロンドンに到達した。途中豪雨に襲われ、寒さの中、高速の真ん中で雨に打たれながらヒッチハイクをしているときはさすがにまいった。着いた後にも宿探しには手間をかけ迷いに迷った末、二件のバッパーを見つけ、止まる場所は確保できた。ロンドンは高い。一泊14ポンドから20ポンド。、約14人から21人部屋でそれだ。たまらなく笑いが出る。交渉もきくような所ではなくしかたなく払わされる。予約はいっぱいで、毎日部屋を変えざらない状況にもあった。そしてここでは外国人の旅行者が大半を占め、特にイタリア、フランスそしてスペイン人に囲まれて過ごす日々となった。もちろんほとんどが英語を片言しかしゃべれなく、会話には苦労をした。
初日、ヒッチハイクの疲れもあり早めに床に着き体を休めた。
二日目、街を歩き歩き、時間を潰し夜に備えた。夜は、すぐ近くのバッパーで数人のイタリア人とビールを交わし限りある会話の中で酔いにはいりだした。近くで音楽を聴いていたフランス人のジェズに会い音楽の話が意気投合して仲良くなった。ジェズはイギリスに一年ほど滞在していたらしく、英語はよく通じ、ロンドンの歩き方もよく知っていた。彼はちょうど引っ越しをする間際でその週は止まる場所もなく、夜をパーティーで過ごし、朝から公園で睡眠を取るという生活をしていた。おもしろそうだ。どこに行くかというとファブリック、ドラム&ベースが流れるロンドンで誰とも知る、かなり有名なクラブだ。聞くとDJ Markyが今夜プレイするという。すぐさま決めた、今夜はそこだ。二時間ほど路上で時間を潰した。一緒にいたイタリア人とも仲良くなり、イタリアニーズという言語を勝手に作って話は盛り上がった。簡単にいうとでたらめイタリア語だ。発音を真似して英語を混ぜてけっこううけた。それだけ英単語がイタリア語にもあるのか意外にも通じるときがあり笑えた。そしてファブリック。百人以上並んでいただろうか、深夜12時を回ったときには既に行列ができていた。どれくらい待っただろうかわからないほど、会話に盛り上がり、飲んだくれていた。中に入ると地下に向かう階段が、そしてそこはまるで迷宮、入り組んだ地下トンネルにいくつものステージが隠れている。迷子になりながらいろんなステージを見て回った。仲間ともはぐれたら、見つけるのは困難、それでも中では出会ったりはぐれたり。外に出て一服。中に入って迷子。そうしてマーキィーはメインステージで始まった。いつの間にかみんなとはぐれていたが、これだけは見逃せない。豪快なサウンドシステムの中、サンバ系のベース音が体をダンスへとかり出した。辺りは騒然とし空気を泳ぐようにして重低音をかきわけた。はぐれていた仲間とも再会し共に流れる音楽に溺れた。コンサートが終わると急に蒸し暑さに襲われ外へと足を運ぶ。晴天は目に滲みる針のように虹色に刺さり、冷たい空気は乾ききった肺に氷のように流れ込む。一日の終わりであって始まりでもある。マクドナルドで時間を潰した後、倒れるように床に着いた。
同じような事の繰り返しのように始まった一日は、似た者同士が集まり、単調な一日として流れ、記憶には漠然としてしか残らない。曇り空の一日は憂鬱で二日酔いのまったりした生活には似合わない。疲れきった体は重く、あおる酒はごまかしであり楽しみではない。しかしながら一日は過ぎていき無理をする体は気持ち以上に活動し真夜中の街へと連れて行く。そんな中歩いたオールドストリートは途切れ途切れ記憶に細切れの写真のように残った。朝四時頃だろうか、帰り道のバスの中、急に飛び降りた。降り遅れたと勘違いしあわてて外へ出たのだ。一緒に飲んでた仲間がバスの中から驚いている。歩いて帰るはめになり重たい体をロンドンの西から東へと動かした。揺れる風景は目に入る事さえできず、見る事のできない景色は記憶にはっきりとは写らない。飲み過ぎとは面白くない事だ。
我に返った次の日は晴天。気分転換に公園へ出向く。ハイドパークはロンドンでもお気に入りの場所でとても大きく自分の居場所を与えてくれる。家族がピクニックをしている。年寄りが鴨と戯れている。若者が音楽を弾いたり本を読んでいる。子供達がかけっこやローラーボードで通り過ぎていく。ランニングやサイクリング、サッカーやバトミントン、穏やかな生活は俺を満たし生きた心地に戻してくれ、また気分のいい一日が始まった。半日をごろごろのびのびと公園で過ごした後、街を歩いてみてロンドンの街並と雰囲気を味わった。古い建物に囲まれきれいな街だと思う。ロンドンでは天候の話が盛り上がる訳がわかる。天候がそこにいる人たちの多くを左右する。その日はゆっくりとロンドン見物をしてバッパーに帰った。皆に今までどこにいたのかと心配されていて笑えた。面白いスペイン人のグループにも会った。日本の文化にかなりの影響を受けていて、アニメのような格好と、何かのキャラクターのように日本語を起用する奴らで笑いを誘ってくれた。その日はお酒を控えめにし皆との再会を誓い眠る事とにした。
五日間で200ポンド近く使ってしまった。旅の予算はこのままでは続いていかないがロンドンだからしかたないと財布の中にため息をついた。帰り道の途中、先週、監獄から出たばかりだと言うおじさんに会い一時間ほど話をした。イギリスの過酷な労働階級社会と、生き詰まる時代に取り残されていく、はみだし者達について語った。ヒッチハイクで帰るつもりだったが一時間ほどハイドパークで時間を潰した後、ロンドン人の多忙な人の時間のなさと溢れ出た疲れのためバスでブリストルに向かった。

2011年8月10日水曜日

スモールネーションフェスティバル

ウェールズの広大な緑と、古風作りの家々に囲まれた小さな村の片隅にある農場でスモールネーションフェスティバルは開催された。総員全部で約400から500人ほどだろうか、グラスティングバリーと比べると本当に小さなイベントで最大から最小のフェスティバルへの移行となり驚いた。ステージは二つ、お店やイベントが数えられるほどで、家族ずれが大半を占めていた。外での火を使ったパフォーマンス、ジャグリングや(棒回し)を繰り広げる人たちで日が暮れるまで賑やかだった。夜は静かになり、暗闇の中にぽっかりと光る月明かりだけがスモールネーションの草原を優しく照らしてくれていた。

三泊四日のスモールネーションでのカフェタンゴはそれでも一番賑やかに、最後まで晩餐に明け暮れた。おもしろいことにオーストライアから知り合いのカーラとその友達サイモンがカフェの仲間はいったし、インドで会ったリサとデインも今回のカフェタンゴの成員となりフィン、ラフ、ジョー、ジョン、ジョーシュとで楽しいフェスティバルは仲良く始まった。初日はカフェの準備で忙しく、看板のデザインやキッチン作りに追われた。今回はピザを提供。粘土とセラミックで覆われた大きなオーブンでピザを90秒で作り上げる予定だ。夜は皆で飲んで明かした。

二日目、期待よりも多くの商売敵と予想以下の参加者のせいで売り上げは伸びず、静かなピザ作りで始まった。それでも音楽をかけ仲間は皆、楽しく踊りながらのカフェタンゴは小さなフェスティバルの中で多いに目立ち、歓声を受けた。夜、暇が開いたときに(ほぼ暇な状況だったが)ライブを見に行ってみてウェールズの地方のバンドの音に感動した。氷の塊が粉状になったラインの先に、朝日が昇るまで歌ったり踊ったり、お客用の折りたたみ椅子で投げ合いをしたり、夜はいつも狸のお祭りのように壮大に盛り上がった。

三日目、翌日と変わりもなく静かなカフェは翌日の疲れとともに皆を眠りへと連れ込んだ。
平凡な一日は長く感じられ、終わる事のない落胆は疲れをも拡張させる。音楽さえもゆったりと流れ、小さなフェスティバルはより小さく感じられた。夜中になると自分たち用にキノコピザを作り皆で味わった後、幻想的な時間がゆったりと流れる中一人一人、手に小道具を持ち、音楽を作り始めた。ボールに鍋ぶた泡立て器にざる、スプーンにトマトの缶詰め、などなどアイディアを競い合って愉快なリズムを刻んだ。デインがチベットから持って来た仏教の鈴は皆の注目のアイテムとして取り上げられ、夢中で鈴棒で音を響かせた。その統一された繊細な旋律は虹の彼方から仏を呼び、空へと舞い上がる阿弥陀仏として俺の頭に虹色に焼きつき、夜中、凛という始まりの音とともに別の世界へと意識を蒸発させてくれた。深夜には寒気が襲いキャンプファイヤーの準備を始めたが、都会の者がキャンプをすると缶詰めの中に小さな火を灯し皆で輪になることになった。空腹に襲われ想像力をフルに活動させピザの残り物でいろんなバーベキューを創作し、コーヒーのかき混ぜ棒に刺し小さなトマト缶の火であぶり味わった。そんな中リサが持ち出したマシュマロを見て創案したのがマシュマロピザ、後にミッドナイトマラドールとして呼ばれるようになったが、たっぷりのチョコとバナナ、ウォーナッツにハニーとマシュマロをトッピングしたピザを考案。皆の注目を浴び、夜中のスナックとしてその日活躍した。早朝、霧に囲まれた草原は優雅にも紺色に空気を染め朝日を迎える。キャンプ場に歩き、皆で朝日を待った。空に流れる飛行機雲がまるで世界を変える巨大隕石のように数々飛んでいく中、冷えきった世界に暖かい太陽が流れ朝はいつものように訪れを告げていた。

晴天はテント暮らしにとって災難だ。照り着く日差しはテントの中を灼熱の地獄と変え、疲れきった体を汗だくにして目覚めさせる。重たい体を押し起こしてシャワーに向かう。冷たい水で汗を流し、カフェに向かう。朝食をジョンとともに過ごし、ゆっくりとかたずけを始めた。晴天に恵まれた四日間は嵐のように過ぎ、地面に残る片付けられたカフェの四角い後がまるで作られた不思議の国の塞がれた出口として二度と戻れない時間と空間のように感じられた光景だった。こうして皆でウェールズにあるフィンの親父さんの家に向かった。





疲れきった体はウェールズの家にある静かな自然の中で過ごすと癒しが速い。早朝から朝ご飯を作ったりし、夕方はビーチでバーベキューをすることになった。早速、肉とビールを買いに車で出かけそのままビーチへ。そこで見た景色は広大な丘から一気にビーチと化す英国独特の姿、ビーチから二、三十メートルもいっきに登り建つ岸はオーストラリアのグレートオーシャンロードをも思い出させる光景だった。海にはオットセイが時々見られ俺らの注目を集めた。しかしながら英国は天気が悪いし寒い。冷たい風の吹く中ジョー、ラフ、デインと俺らは海へと飛び込んだ。その間フィンがバーベキューの用意をしてくれ寒くなった体をバーベキューセットを囲み暖まった。久々の肉はまた格段とおいしく食感もとてもよかった。ラフがサンマも持って来ていて焼き魚をもしてくれた。バーベキューが終わると皆でフリスービーやサッカーをビーチでして楽しんだ。驚いたのは潮のひき方、一メートルほどだった満潮時から三時間後、そこには五十メートルほどのビーチが何キロも続いていた。日が暮れるとキャンプファイヤーをして体を温めた。真夜中まで続いた会話は消え行く炎とともに穏やかに過ぎ去り、家路へと向かった。

次の日、ブリストルに向かった。体を休め、次の計画を考えた。それからの日々は、カーラとサイモンにバーベキューに誘われ、彼らの友達のうちでバーベキューをしたり、夜のブリストルの街と音楽を楽しみにジョーシュと外へ出たりして過ぎていった。チェスも楽しんだし、ポーカーもしたりして一週間ほど流れていった。土曜の夜はジョーシュが家の窓からゲロをぶちまけるほど飲んだ。三回ほどクライミングジムへと向かい、なまりきった体に筋肉痛を叩き込んだりもした。

2011年8月8日月曜日

ブリストルに本拠地を


グラスティングバリーフェスティバルの最終日から二日かけてカフェを片付け、ウェールズの北西海岸にあるフィンの親父さんの家に向かった。本当に小さな村にあり、辺り一面、羊の牧場と麦畑に囲まれ、穏やかな所だった。グラスティングバリーの混沌から抜け出し丸一日を自然に囲まれて親かに過ごした。次の日、後かたずけの後ブリストルに向かい明日の、セント ポールズ カーニバルに備えた。ブリストルはイギリスに南西にあり、小さい街ながらかなり賑やかだ。至る所にストリートアートが描かれ、皆活気に満ちている。ロンドンと違って、すれ違う人たちと笑顔を交わし合い挨拶もする。ここでもかなりの多国籍の人々と会い、いろんな文化に出会った。

土曜日の昼頃、音楽が街から聞こえてきた。青空に恵まれたその街はセント ポールズ カーニバルにとって幸いの日となり街中をお祭り騒ぎへと変えていった。フィンと表へ出てみると、大通りは人波に溢れてい、白人から黒人、アラブ系からラテン系、あらゆる人種の人たちがごった返し、露店と巨大スピーカーに囲まれた大通りはまた俺を混沌の最中に連れてってくれた。大きな公園に人だかりはでき、芝生の上で酒は進んだ。壮大なカーニバルは深夜へと続き街中を騒ぎ立てていたが、さすがに三週間の疲れがでたせいか、知らぬ間に誰とも知らぬハウスパーティーのソファーで眠りへと着いていた。フィンに担いで帰ってもらい騒ぎ立てた夜は静かな朝を迎えた。

二日酔いは皆同じく、紅茶を飲み飲み、昼はだらだらと時間を潰した。夕方まじか、サイクリングがしたくなりラフを説得し重い頭を街へと向けた。ラフに高台にある高原へと連れって行ってもらいブリストルの街を見下ろした。まさにデジャブー。見下ろした光景はジブリのような街並に囲まれ魔女の宅急便を思い出させた。そのすがすがしさの心地よさ、しっくりとくる緑溢れる英国は絵に描いたように夕日に燃え、頭の中に焼き付いた。帰り道パブで一杯ビールを嗜み岐路に着くと、偶然にも偶然、ブリストルという小さな街の小さな路地で、メルボルンで働いていた頃、隣で働いていて、俺のインドネシア行きのチケットを予約してくれたオーストラリア人の子、カーラと再会。お互い驚きまくった。会話は弾み何をしているかと訪ねると、もう一年もイギリスにいるという、仕事もやめて今はフェスティバルを楽しみたいと。そこで次のフェスティバルでもう一人ウェイトレスが必要だというとやってみたいと言ってくれた。話が進んだ後、家に帰りフィンと話をし、カーラは次のカフェタンゴのメンバーとして仲間になった。友達の輪とはおもしろいものだ。予想もしてない場所で、予測もできない出会いに会い、まるで予知されていたように事が起こる。まだまだ旅は長い、次は何が起こるだろうか。

それから数日、ミニバンを買いたくインターネットに取り憑かれ頭を悩ました。が、結果保険という壁にぶつかりしばらくの間はあきらめる事にした。家でバーベキューしたり、ギターを弾いたり、平坦で穏やかな一日がしばらく続いた。
フィンと共に次のフェスティバルに向け食材の買い物に行きウェールズに向かった。フィンの姉のトレイラーを牽引しウェールズの高速を時速100キロで走っているとき車が突如揺れだし、俺らが乗っていたバンが急に高速をはみだしたり対向車線に滑ったり。フィンを見るとその横顔はマジやば、下り坂で牽引車に押されだしたのか止まる事ができない。ドーンと大きな音がしトレーラーが外れた。フィンはバンを車線に戻し道路の隅に緊急停車。ホットした一瞬だった。幸いにも対向車はなっかたし、横転も真逃れ、大きな交通事故にはならなかったがトレーラーは再起不能。レッカー車を呼び高速の真ん中で二時間ほど頭に登ったアドレナリンの静かな脈拍の音に、生きている実感を感じた。

2011年7月20日水曜日

グラスティングバリー フェスティバルの経験


グラストンバリー

早朝から慌ただしく荷物をまとめ、眠い頭にコーヒーを流し込む。小さな車に入るだけの荷物を押し込み、グラスティングバリーへと向かいだす。軽い音楽をかけ流し、高速へ向かう空は薄暗い雲に囲まれ雨を予報してくれる。早速か、といわんばかりかイギリスの天候には悩まされる。降り注ぐ雨は、走り行くタイヤのしぶきと共に深く、強くなっていった。幸い、目的地に着いたときは小降りになり薄らと明かりが空から溢れた。グラスティングバリーフェスティバルは農家の広大なファームで行われる。雨上がりの傾く太陽に照らされた緑色に輝くその大地は美しく、そこ全体がフェスティバルと化すとは信じがたかった。
カフェのオーナー、フィンと軽く挨拶をし、ジョンから借りたテントを張ることに。開けてみて驚くのがそのサイズだ。聞いてはいたが、中に入るとより小さく感じる。133Cm x188cm、のエアベットが少しのすき間を残しぴったり。体を斜めにしてぎりぎり荷物と寝るスペースを確保。かなり甘く見ていた。それでも最大の失態は地面、聞いていた通り地面は泥だらけ、しかしここの泥はさらに特別に重い。まさに沼と化した漆黒の地面に足は取られ、濡れた足の指先に寒さがしみ込む。さすがに長靴を買いに次の日向かった。五日後にはフェスティバルが始まる。次の日からその準備と、仲間との交流に日々を楽しんだ。

グリーンピースのクルー100人から150人をまかなう仕事は楽しかった。毎日冷蔵庫を開け次の日の晩飯を考案、創作に、計算。無駄の出ないよう、労働者を満足させるよう、作らなければならないのだが、肉は一切なし。工夫を重ね、たくさんの人から満足の言葉をかけてもらって料理の自身と、料理人としての満足を憶えた。毎晩、大きなたき火を囲みギターを弾いたり、話をしたりして時間を過ごした。一度あったバーベキューには感動、肉という食材がどれだけ尊いか感じた瞬間だった。

インドで出会ったデインとリサにここでまた会うことになり、お互い驚いた。またインドでクライミングを共にしたマイクがセキュリティーをしていたことにも笑いがでた。世の中広かったり狭かったりするものだ。

俺らのレストランは カフェタンゴ、そのクルーは他ならず楽しい連中、フィン、ラフ、ジョー、ジョン、テリー、オウエン、ベン、アメリア、エミリー、デイジー、ハナ、によって構成され活気のあるチームだった。毎日音楽をかけながら、踊りながら料理をする。日が暮れれば飲みながらかたずけをする。フェスティバル用のマーキーを張り、キッチンを作り上げる。広告用のメニューのデザインと看板を任され、二日間ペインティングに費やした。大きなキャンバスは初めてで楽しかった。ハナ、サラ、マラ、エマ、ルイサとベンの手助けにより楽しいペインティングだったが名前に困った。

ある晴れた日、暇が空いた時間に開催地を歩いて回ったが、その広さに驚いた。なんでも土日には世界で9番目に人口密度の高い街になるとさ。毎日、その街は拡大していき、建設の速さに圧倒された。シャングリラと呼ばれる場所には、宇宙船や鉄でできた、でっかい顔、飛行機、吊るされた車、などなどいろんなものが並んでいた。グリーンフィールドと呼ばれる場所ではストーンヘンジがありたき火がともされ、24時間たくさんの人たちが戯れていた。

記憶が風船の中に詰まり飛んでゆく中、開会式をあげる如く、ストーンヘンジフィールドで花火が上がった。何千という瞳は一点に集中し、光り輝く空に何を見たのだろうか。瞬く間に始まった爆発は光と音の速さに別れ、頬に伝わってくる。静寂。会話が途切れたせいだろう。騒がしかった群衆がのめり込む美しさは時に音もなく脳裏に焼き付く。どのくらいたっただろう、穴の開いた長靴に冷たい泥を感じ、指先にできた水ぶくれの痛みとともに、沼にはまった重い足を前へと、バーに飲みに行く。暗闇の中声を掛け合い、パーティーを求め彷徨う俺らの姿は滑稽だったろうか。この街では、セキュリティーが酔ってない者を通報する。真剣な顔をしている者は怪しく犯しい。そうやってグラスティングバリーの初日は始まった。

翌朝、日に照らされたテントの蒸し暑さと、泥だらけのベットの感触、五日目の狭い空間の異臭に目が覚めた。心地よいシャワーを浴びカフェに向かう。一般人がフェスティバルに入って来た。次の日には二十万人近くなるそうだ。陽気な群衆の中グリーンピースフィールドは準備が間に合わずまだ閉ざされたままだったが、次の日の支度に追われ俺は忙しくまな板にリズムを合わせていた。100人分の準備とさらに100人分の用意を終えるとヴォッカオレンジに手を出し気分を休める。日が暮れると皆でバーに行き、騒々しい音楽と賑やかな群衆の中、酔いしれる自分を堪能し一日が過ぎていった。

金曜日

更なる数の人がこの街と呼べるフェスティバルに参加して来て、いよいよ賑やかになって来た。グリーンピースフィールドもオープンし溢れる人だかりに並べられた数々のアートやイベントが満喫されていた。濡れた地面は足踏みされるたびに深く、粘り強くなっていく。時に人は埋まりいく地面に足を取られ、抜け出せずに助けを求めることも。数々の長靴が前の晩にその泥沼に吸い込まれ、次の日の朝、日光とともに泥沼から顔を出していた光景はかなり独特な景色だった。夜は向いのカフェで働いていたベッキーとともにヴォッカを片手にいろんなイベントを見て回り、足の埋まる泥沼の中踊り明かした。

土曜日

いよいよフェスティバルも最高潮に達し、ミュージシャンのラインアップも盛大になってきた。日曜だったかもしれないが、暇ので来た昼にザ ゴー チームを見に行き感動した。日の沈む頃皆でケミカルブラザーズを見に行ったがトイレに行っている途中仲間とはぐれ、デイジーと二人で見物。人だかりのせいでかなり離れた場所から見ていたが、巨大なネオンライトのスクリーンは俺らを音の世界へと連れて行ってくれた。その後一緒にアーケイディアという広場に向かうことになり荒れ狂う泥沼の中先へ進むと交通規制ができていた。なんでも規制人数以上を広場に入れたくないらしい。デイジーは気にせず近くのフェンスを飛び抜けた。一瞬、呆気に取られたがもちろん俺も気にせずフェンスをジャンプ。一つ林を抜けると巨大な鉄の塊が火を噴いていた。熱が露出された肌の一部に熱く広がる。そして音楽。ステージは群衆の真ん中をぐるぐると回り、DJが重いベース音の羅列をまるでオーディエンスを操るがのごとく飛ばしていた。ステージの上に登り、疲れきった足にエクスタシーが走り、二人で空が明るくなるまで踊り通した。

日曜日

今までで最高の晴天を迎えた最終日は、その輝かしい青空とともに終局を演じ始めた。登り詰めた雲隠れの山頂に、新たな一角を発見した登山家の疲労と喜び。ほぼ一週間以上ろくな睡眠も取らず飛び明かした驚喜は限界を超え疲労さえ感じさせた。だがここで終わるのはイギリスではない。日曜がメインらしい。日中、暇を見つけ日のあたる丘に登り昼寝をし夜に備えた。カフェは10時に閉め、皆集まりだした。共にアーケイディアに向かう。深夜12時近くに辿り着いたそのステージで俺が目にしたのは壮大なサーカス劇と炎に包まれたダンサー。白いドレスに身を纏い、響き渡るベース音を切り裂くように鮮烈する美しいヴァイオリンの音色。凍えていた肌に焼き付ける灼熱の砲火劇。新たな夜を告げるにはあまりにも壮大で、美しかった。乱れる群衆をかき分け見つけた場所にはグリーンピースとカフェのほとんどのメンバーが顔を揃えていた。地面はよく乾き、感覚のない足腰にうまくリズムを踊らせた。音色は輝く一方、感覚は底をつき旋律だけが頭を突抜ける。言葉のない会話に笑顔を向け、永遠と感じられる壮観は永延と透き通る。まさに最終劇に相応しいショーだった。はっきりとして来た景色に気づけば空は明るく、大勢だった大衆は溢れ帰るゴミとすり替わり、まるで狐にでも化かされたような朝もやに包まれて自分に気づく。カフェの仲間はまだ回りにいて、朝日を見に行こうと話をした。何人かは朝日を迎えに丘に登り俺は疲れきった体を小さなテントに埋づめた。

月曜日

蒸しかえる灼熱のテントの中で異臭と嫌気に目を覚ます。心地よいシャワーを浴びると爽快な日差しが歓喜と驚喜を思い出させてくれて腕を空に伸ばした。目くらいが少し、足腰の痺れがずっしり、唐突に筋肉が起きるのには時間がかかることを教えてくれる。乱用されきった胃に朝飯をティーと一緒に流し込む。たくさんの人たちが出口に向かってバックパックを引きずって向かって行く中、ティーを片手に眺めていた。記憶が頭の中を過る。笑いがでてくる。人生で初めてフェスティバルというものを経験したが、これほどまでとは想像もつかなかった。まだまだ好奇心は旺盛。次に行くのもが楽しみだ。

2011年7月19日火曜日

イギリスに飛んでみた


ロンドン

6月9日、インドからオーストラリアで会ったジョンの招待によりイギリスに到着。イミグレでギターを見せ、音楽家だと問題なく六ヶ月のビザ獲得。空港にジョンに迎えに来てもらい、早速、ロンドンに向かった。気温はインドに比べ、サンダルにティーシャツの肌に白い吐息が寒さを訴える。走る車の窓を開け見渡すロンドンは夏だというのに、曇り空の薄暗い空気により英国の独特な雰囲気を漂わせていた。
ジョンの姉の家がノッティングヒルにあり泊めてもらうことに、ロンドンの高級住宅街に四日、身を寄せることになりその日は一段落した。

次の日突然の水の変化によりか腹の調子を壊すはめになった。街は雨、薄暗さにシトシトと音を立てる路上には人影も薄く、ロンドンの初日のイメージをイギリスの噂の形とピタリとはまるパズルのように連想させた。

日曜になると、突然の太陽。ノッティングヒルマーケットがちょうどあり、輝く街中に忽然と現れた群衆と露店により中心街は騒がしさに包まれ、活気のある路上に一変した。皆、笑顔に満ち、好奇心旺盛の顔ぶれで溢れ露店を回っている。多彩な音楽が四方から流れ、路上では数々の音楽家達がパフォーマンスを。見慣れたアジアの商品から、想像もつかない物体。路上を埋め尽くす数々の香りが俺の足を露店へと導く。おしゃれなカフェが立ち並び、たくさんの人がティーやビールを楽しんでいる。そこで気づいたのが多国籍文化、ロンドンにはたくさんの人種がいる。これほど数多くの人種を同じ通りで見ることが他にあるだろうか。聞こえてくる言葉に耳を傾けると誰しもが外国語を。肌の色から服装まで様々だ。グラスティングバリーに向け買い物に、寝袋、シューズ、靴下など必需品を購入。イギリスの物価は高い。イギリスの貨幣、パウンドをインドのルピーに換算し毎回驚く。ロンドンでは天気がいいとイギリスにいる住民は活動的になり、これほど印象が変わってくるらしい。夜九時半、驚くことにまだ夕日により街中が明るい、時差ボケというより昼ボケだ。イギリスが思ったより北にあることを目で感じた晴天の一日だった。

2011年7月1日金曜日

インドに魅せられて 最終章


バクソ

12日間のバクソ生活は長過ぎたかもしれない。バラナシ行きを断念。バクソの心地よさと、45℃を毎日超えると言われる南に向かうことの気怠さが、今の後悔と屈辱に値するのかと思うと胸が痛い。イギリス行きを待ち、特に何もすることなく毎日が過ぎていった。それがバクソの思い出かもしれない。しかしながらまたいつかこの土地に帰りアクセサリーの作り方を学び瞑想に浸りに帰りたいと思うとバクソは心地よい場所かもしれない。ここに来て頭に入ったことは、人は後悔なしには行動できないということだ。決意は常に問われ、後悔は後に来る。しかしながら後先を予測しながら戸惑ってばかりでは結果はついてこない。今はイギリスに滞在、大きな後悔は期待以上の経験に埋め帰られ、またいつでも帰れるだろうと前向きな気持ちと、この機会を逃さないでよかったと新しい冒険に目を向けている。

とりあえずバクソ、ここでは毎日ギターを片手に、ヴォッカを煽り、酒と草に溺れ毎日が淡々と過ぎた。バクソは上り坂一つの小さな場所で、カフェと装飾屋、音楽と瞑想の盛んなエキゾチックな場所である。青々した山に囲まれ、マックレオ ガンジとダラムカの間に位置し、一時間もあれば全てを知ることができるだろう。しかしながら誰もがこの土地に長居し、だらだらと生き続ける訳は、インドという凄まじい環境から抜け、猛暑と混沌から離れることができるからかもしれない。もちろん俺がこの場所でゆったりできたことは言うまでもない。

毎日、早朝に目が覚め、ストレッチとジャグリングに励み腹を空かす。
坂を下りカフェに向かい人の群がりに混じり朝食をともにする。
ハシーッシが回ってき時間が止まる。
ギターを弾いたり、映画を見たり、会話したりし、時間が過ぎる。
馴染みのカフェを回りながら、馴染みの顔に挨拶する。
チャイを求め次のカフェへ。
いつの間にか日は沈み、馴染みの場へギターを片手に坂を登る。

ベルギー出身のローラ、マニラから共に旅をしてきたが共に演奏をバクソで始めた。彼女の声はそこにいる皆の注目を引きつけレストランは静寂に包まれる。演奏はいつもアドリブ、少々のミスはおかまいなし、ジャズとジプシーのリズムにローラの奥行きのある歌声はインドの真っ赤なカラフルなカフェに虹のように流れ込む。静寂は盛観に代わり永遠に感じた演奏は幕を開ける。凛とした圧巻は喝采と共に観衆は意識を取り戻し、その場の雰囲気は活気と雑談に包まれ息を吹き返す。最高のパートナーだった。

二週間はつかの間に過ぎ、皆との別れを告げ猛暑と混沌の街、デリに向かうことになった。




デリ

早朝五時頃だろうか外の騒がしさとともにデリの街に着いた。思っていたより楽しかった。夏場のデリ、天候も45度を超える灼熱の状況の中、毎日街を歩き回りショッピングに明け暮れた。インド料理もおいしく今までで一番安かった。ゲストハウスはかなり汚く、蒸し暑く寝るのには苦労したがそれ以外は生活できる場所として思い出に残る。五日とかなりの時間を過ごしたがイギリス行きの興奮とインドへの別れ惜しみに苛まれ、その騒々しい生活を堪能した五日間だった。旅疲れのせいか、空港へはタクシーを利用、楽に辿り着いた。早朝四時、飛行機に乗り込むとさすがにわくわくしてき、疲れきった体にアドレナリンが回り、上昇気流とともに真っ青な空に包まれイギリスを夢見た。

2011年5月31日火曜日

インドに魅せられて 3


ビネカル

後悔、、、 間違った場所に来た、そんな気持ちになった。乾ききった土地の真ん中にこんな大きな都会も存在できるのかと関心はしたものの、騒音と公害に囲まれる日々は旅人にとって苦痛だ。ジャイサルマーに残るべきだった。ラクダツアーに参加し、一日を砂漠で過ごしたが、そこそこだった。ジャイサルマーでツアーを組んだ人たちは感動と衝撃に満たされていたが、俺は疲労と落胆に落ち込んだ。街の端に安宿を見つけ、数日をビデオの編集に打ち込み、親への手紙を書き、サフロンティーと共に送った。
そんな日々の中ビカネルに立ち寄った理由、街の名所、はあるお寺にある。世界で唯一のネズミを神とまつわるお寺。そこで目にした物は驚きに目が眩んだ。ネズミを神と称し食べ物を与え、可愛がり、敬っている。寺に入るとその匂いに体は包まれ、裸足で入らなければならないおかげで溢れるネズミの糞の感触に鳥肌が立つ。文化とは面白い。聞いた話によるとそこにはネズミ専用のシェフが存在し、信仰的な人々は地べたに横たわりネズミと戯れるらしい。
落ち着いた日々は緩やかに過ぎ、アミリトッサーに向かった。




アムリトッサー

午前四時、陽も出る前に大声に起こされ、10時間以上のバス旅に疲れきった頭に入ってくるかけ声に混乱した。バスを降り、怠い体にチャイを流し込み安宿を訪ね回りリクシャーに飛び乗る。ドミトリーを見つけもう一眠りした。
熱気とともに起こされる体は一段と重く、汗によりベタつく肌は一日の始まりを心地よく迎えてはくれない。六人部屋のドミトリーには俺独り、真っ白な壁と高すぎる天井がそのただ広い空間を孤独が埋め尽くす。この街にも人はいないのかと不安に横たわりながらも前進するしかない選択肢に疑問を憶える。シャワーを浴び気分を一掃させると青空と微風が肌に通り元気がでた。ゲストハウスのカウンターに向かいこの街の情報を手に入れると早速街に出てみた。交通量の多さにまず驚き、埋め尽くされる排気ガスと騒音の中、朝食を探しに歩いた。
こんな始まりの中、街の見所ゴールデンテンプルには少し期待を抱いていた自分に30ルピーのタリを流し込む。Golden templeの近くまで歩くとさすがに人ごみに悩まされ始めた。いくらかかるのかと心配した入場料には無料という驚きを隠せなかった。そして扉をくぐるとそこには金色に輝く雄大な寺が水の上に建っていた。あたりをぐるりと回りその日はおしまいにした。
帰って部屋でビデオの編集をしギターを練習していると何人かのバッパーが入ってきた。待ちに待った来客に会話は弾み皆で乾杯した。Golden temple の近くにただで泊めてくれる場所とただ飯の話を聞き,そこに次の日向かうことに決めた。
一部屋に三十人近くはいただろうか、幅一メートル間隔でシェアするベットに荷物を置き、パキスタンボーダー セレモニーに向かった。
旅仲間は楽もしい。セレモニー自体は不思議なものだった。国境沿いにお互いの国の音楽を流し、インドの方は女性達がナイトクラブのような雰囲気で踊り男どもがそれを眺めているパキスタンの方も負けじと大声を上げ、なにやらやっていたがあまり見えなかった。お互いこんな物かと笑い、寺に帰った。
Golden temple の中のただ飯の場に行くと、慌ただしい皿洗いの音に驚いた。何千というアルミ製の食器が飛ぶように片付けられていく。流れ作業の混沌の横のドアの中に人が吸い込まれていく。写真も撮る間もなく食器を取り渡され、部屋へ連れてかれる。そこには何百という人が地べたに座り食事をしている。押し流され、自分の場所を確保し座り込むと、すぐさまに大きな鉄製のバケツを持ったインド人が尺でダルを注ぎにくる。その速さはまるで家畜でも世話してるようにお粗末だがこの人数だから、納得はできた。皆驚きの表情を隠せず口にしたタリは今まで食べたインド料理の中で最高だった。とにかくおいしい。何度おかわりをしてもいい。最高だ。腹がはち切れるほど食べている最中、急に回りの人々が立ちだし、部屋を流れるように出て行く。掃除の時間だ。水が石床に撒かれ踊るように現れたモップ達に拭かれるように外に出ると皆で感想を話した。その後キッチンを見に行き驚いた。騒音と共に洗われていく食器の隣で、風呂のように大きな釜にカレーが湯気をたてていて何百というチャパティがホットプレートの上を舞っている。何百というカボチャが微塵に切られて垂井の中に投げ込まれていく。これを毎日二十四時間やっていると聞くのだから感嘆に目を取られた。
夜見る Golden temple はまた一段と輝しく賑やかだった。参列するインド人に混じって中に入るとそこには一日中演奏し続けている演奏家達と幅が一メートル以上もある大きな本を読んでいる僧が彩られた寺院の中に座っていて、皆それを拝んでいた。屋上は人も少なく心地よい風が吹いていた。
皆床についたが俺は一人で Golden temple の敷地内で読書に耽った。そこには何千という人たちが地べたに横たわり眠っていたが、物売りも物乞いもとくになかったので静かに過ごすことができた。
次の日、回りの勧めで北に向かうのを止めマックレオ ガンジに向かう決心をしバス停に向かうとそこには溢れんばかりのバッパーに出くわすことになった。どうやらマックレオ ガンジはヒッピー達のパラダイスらしい。バッパーだらけのローカルバスにはいつもとは違う、いきいきとした雰囲気があり気分も高ぶった。何人かは他の街でも出会ったことがあり。お互いの経験を話し合い楽しいバス旅になった。標高二千メートル以上のマックレオ ガンジに向かう道のりは、うねり道でかなりのデコボコ坂でもあったが、時間が経つに連れて気温が下がり、空気も澄んできて、皆、興奮しだした。緑の山々に囲まれた道森は壮大で山の頂上に白雪が見えたときは感嘆に息をのんだ。少々波乱もあったが午後七時過ぎ頃だろうか夕日の沈む緑豊かな山々に囲まれてマックレオ ガンジに辿り着いた。




マックレオ ガンジ

夜行バスの揺れる中、俺はまたガンジに向かっている。バシッシに二週間滞在の後ここに帰るきっかけになったのは恋心か音楽かは、はっきりしないが共に行くエリスに気がないことも反論はできない。とにかく今は三週間前の出来事を話そう。
アミリットサーの後マックレオ ガンジに着いた後、カナダ人のジェニとロブ、シェインと息統合し部屋をシェアすることになった。着くなり、酒が必要だなといいだしたカナダ人は元気もいいがノリもいい。疲れきった体にウィスキーを流し込みギターを手に取ると皆賛同して歌いだした。ゲストハウスの一部屋の中で始まった歌声は笑い声とともに皆を一つにまとめた。心地よい雰囲気は音楽が作ってくれる。特に皆の音楽のテイストが似ていると面白い。拡張する声音の合間に見出した友情はアップテンポするリズムにより盛り上がり時間という実在のない存在を忘れさせる。しかしながら空腹という原始的な感覚は動物である人という現実を比喩させる如く、無視することはできない。12時を回る直前だった。慌てて飛び出した街にはまだ光もまばらにあり、インドという雰囲気を忘れさせた。音楽も聞こえてくる。近くにあったレストランに入り簡単に晩飯をすませると帰り道、バーから出てくる人だかりと遭遇した。俺のギターを見るなり、ストリートパーティーだと騒ぎ立て道ばたへと飛び出した。パーティーは始まった。ウィスキーのボトルを片手に路上で大はしゃぎ。今思えばよく苦情が出なかったもんだと笑いが出る。三時まで続いたセッションは眠気とともに一足づつ闇に消えていき、澄んだ冷たい空気に囲まれた静寂に包まれた路地に一日の終わりを凛と伝えた。
マックレオ ガンジは観光の村だ。しかしながら、ゲストハウスにレストラン、土産屋と出店に囲まれた観光化されたこの村に居心地のいい雰囲気を与えてくれるのはチベットの文化に影響を与えられた涼しさによる。しつこい物売りもいなければ、必要に追っかけてくるインド人も少ない。インド料理に飽きてきた俺のこの頃には最適な場所となった。
この日、昼食の後に向かった滝にも驚かされた。雪解け水から流れてくる透明な水は突抜けるように冷たく、飲むこともできた。滝の上に居心地の良さそうな場所を見つけ四人で涼しい快晴を数時間満喫した。
その夜は四人で映画「ソーシャル ネットワーク」を見、ジェニに俺のドレッドを直してもらった。
水道水を飲みだしたせいか、次の日下痢になり苦痛と困難に苛まれた。バクソで時間を潰し夜行バスに乗り込み、バシーッシに向かった。もう少しバクソに滞在するべきだったと後悔したが時は遅くバスの中で腹痛に悩まされた。




オールドマナリ

午前五時、朝露の中マナリに通着した。肌に滲みる冷たい雨と、骨まで突き通る寒さが俺を襲った。ティーシャツしか持ってなかった俺には凍えるような気温の変化だ。バシーッシに向かう予定だったがリックシャーが動いてくれない、そこで隣の街オールドマナリに立ち寄ることにした。観光客の多いこの街はイズラエル人の天下だった。ハーシュに溺れ一日をゲストハウスで過ごす人も少なくはない、まぁ環境上そういった旅も楽しかろうが俺には合わずジャケットを購入したのちビデオの編集に時間を費やし次の日バシーッシに向かった。



バシーッシ

観光地だ。想像以上の観光化された場所だったが気に入った。雪山に囲まれたこの町は居心地もよく、温泉が一つありクライミングを目的とする俺にとって長居をする場所として楽しい場所になった。ここでの生活はおよそ二週間。始まりは滝を見に行くハイキングだった。二、三十分ほどのトラッキングは晴天の青空に囲まれた青々した山下の中、真っ白に光る山脈の頂上に圧倒されながら辿り着いた壮大な滝により爽快な終焉を迎えた。
途中にあるカフェ、ハウスに立寄、チャイをたしなめるところも一つの見所だ。
インドの旅に終幕を打つ、ある出来事が起こった。それはイギリスの友達 R ジョンからだ。ジョンは俺がメルボルンにいた頃数ヶ月旅人として俺らのシェアハウスに滞在した。俺がヨーロッパに来ることも知っていて頃合いかと声をかけてくれた。イギリスでバイトの手伝いをしないかと言ってくれた。しかもその場所と着たらグラスティン フェスチバルだ。イギリス人なら誰でも知っている英国で最大の音楽祭だろう。一度は行ってみたかったところである。少し戸惑ったが受け入れられるオファーは見逃しては後悔する。それからは三、四日ほどインターネットに縛り付き航空券の予約とバイト内容、ビザ関係などなど忙しかった。ジョンが空港まで迎えに着てくれる言ってくれ、家もジョンの家に滞在さしてもらうことにした。イギリスはとにかく生活費が高い。だからかなり安心してイギリスに旅立つ予定が成立した。それからというものヨーロッパに向かって気分が高ぶりインドの旅に対して興味が薄れ、インド北部とダージリン、ネパールは断念した。旅とはこんなものだ。気に入った奴らに出会えば共に行動し、何か起これば予定は無限に変えられる。と、余談はまた後にして、バシーッシだがこんな気分の中、数人のクライマーに出会いクライミング生活が始まった。

ソラングというバスで三十分ほど離れた場所にボーダリングロックがゴロゴロしている場所があり、よく行った。

ほぼ毎日、お馴染みのレストランに行き夕食を共にし、いろんな話をした。

映画を見に行った日もある。

日本食を食べに行ったり韓国料理も楽しんだ。

ベルギー出身のハナとローラと一緒にコソールへバイクドライブへ連れってってもらった。コソールは小さなヒッピーの集まる場所でイスラエル人の天国だ。トランスの音楽があちらこちらから聞こえた。そこでは小さなトランス フェスティバルがあり夕焼けとともに盛り上がるミュージックと共に久々に聞く大音響の中、ステレオの前でみんなで踊り回った。加速するベース音の中、乾ききった喉に、ヴッカ オレンジを流し込み、光の合間に垣間見れる友の笑顔に相づちを打ち、空を飛べると振り上げた両手に乱射するレーザー光線に魅とれ、数時間という人生のごく一部で、歓喜に満ちてゆく喜びを感じた。
インドのパーティーは最悪だ。午後十時、おまわりさん達がやってきて、音楽はお開き。こんなことがあるのかと文句をいいながらも久々の音に埋もれた快感は充実していた。

次の日バシーッシにバイクで戻り疲れきった体を温泉で休めた。

ドライブ経験が二日というローラの後ろに乗ったバイクライドは険しい山道で荒れ狂うインド人の車に囲まれながら、あたふたと走ったローラに感謝する。道路はまだ整理されておらずデコボコだが、景色は雪解けの山々に囲まれ壮大だった。四時間ものバイクライドとなった帰り道の途中ガソリンが二度切れ、ヒッチハイクで助けを求めなんとかやりくりもした。楽しいドライブだったが事故一つもなく無事着いた今となっては笑い話になる。

バシーッシ最後の日もソラングにクライミングに行った。最後まで登れなかった二つの難関をクリアしたとき自分に対して成長と、達成感に浸り、ソラングに来てよかったと喜びに満ちた。最後まで根気よくサポートしてくれたマーカスとヤンに感謝する。

ドイツ人のマーカス、ヤン、スイス人のマーカス、地元に住むイギリス人のデェィブ、アメリカ人のテイラーに別れを告げバクソに向かって旅立ちはまた始まった。

2011年5月4日水曜日

インドに魅せられて 2


ジョドプール

この街は青色の建物に囲まれる大きな砦がある。石造の巨大なその砦は青々としたその街の象徴のように優雅にたたずんでいる。ここで泊まったヨギゲストハウスもその一つ、凛々しく青色に輝いていた。アリーナとヤコ、トーマスと一緒にシェアしたその部屋はまるで古くから伝わる伝統的な雰囲気に囲まれ、大理石でできた床により逸走高級感を漂わせた。屋上も感動するほどの絶景と居心地を馴染ませるクッションで飾られていた。
入り組んだ道には、数多くのティーショップが街を賑やかに活気づけ、色とりどりのサロンを扱っている店が華やかに街を彩っている。
街を歩き一つのティーショプに立ち寄った。そこで試飲したサフロンティーに恋をして思わず購入。他にも数多く試したが、どれもこれも品がよく香ばしかった。
次の日、ジョドプールのメランガル砦に見物に行った。丘の上にある砦に、急な坂を炎天下の中、息を切らしながら向かう。途中の景色も楽しみがいがあり、ゆっくりと。300ルピーとかなりの高額だがその甲斐はあった。雄大な建物はゆったりとした風と優雅に飛び交う鳩に包まれ、静かに歴史を語った。天空の城ラピュタを思い出させる街と砦だった。
この街では久々に鶏肉に出会った。ちょっと高級なレストランに入り食べたチキンティッカは格別とおいしくベジタリアン化された胃にどっかりと流し込まれた。酒屋をその街で発見、店にあった一番安いウィスキーとラムを手にジョドプールに乾杯した。
ジョドプールには四日滞在、途中出会ったニコとトーマスと共にジャイサルマーに向かった。



ジャイサルマー

インドでお気に入りの街の一つだ。インドに来る機会があるならばぜひ立ち寄ってほしい。そして砦内のホテルに泊まることをお勧めする。格安でしかも感動の絶景。どのホテルでも独特の優雅な雰囲気があり、家具のセンスもよく、落ち着いた部屋と風景を提供してくれるだろう。そして、ここの街の砦だけが唯一人が住んでいいらしい。小さいがその街の砦内の雰囲気はまさに中世時代のまっただ中、男ならまるで騎士にでもなったような、女性なら貴族の箱娘の気持ちにでもなり浮かれるだろう。ロマンがある。入り口の門にはたくさんの物売りがいてかなり騒がしいが、中はとても穏やかで居心地がいい。この街では特に何もすることはないが雰囲気を味わうには最高。
街全体は二時間もあればぐるりと回れるほどの小さな街で、その隅に小さな丘がある。10分ほどで登りきれるその場所から、夕日を楽しむことができ、夕方になるとたくさんの観光客と物乞いによって賑やかになる。夕日とともに子供達が歌を歌い、インドの民族演奏家が音を奏でるその丘で、一つの家族に会い、手作りの楽器を観せてもらった。その後その家族の家へと招待され、チャイを共にインドの音色を奏でてくれた。ドアもトイレもない、水も住所ですらないそのスラムにある小さな一軒で15人以上の大家族を支える男達は愉快ながら逞しくあった。不思議とテレビがあることにインドのテレビ文化に感動すら憶える。楽器と文化、歴史と家族についていろんな話をした。15の娘は一度しか会ったことのない相手と既に結婚が決まっていたり、女性は客人達が食べ終わるまで食事には手を付けなかったり、何千を超える神様がいたり、とてつもない数の家族構成やインドの楽器の扱い方を教わったりした。次の日夕食に招待され晩餐を共にもした。
最後の夜、ヤコとアリーナに会い、夕食を彼らの砦内のホテルで共にした。ラジャスタンでは唯一のおいしいベジタリアンだった。そのレストランから、この街唯一の違法でないバングショップが見下ろされる。まさに神業、インド人が宗教「神」を信じる気持ちがわかる気がした。インドでは葬式や結婚式にアヘンやマリファナを吸う風習が残っており、未だにその文化に強く根付いているのもそのせいだろう。お酒は御法度、肉は神様、文化の違いとは末恐ろしい。夜、神々しく輝く街の砦の天辺で見下ろした光る音の中に大きな港を見つけ、時代を突き抜ける経験と、統一された精神の中で駆け巡る信仰心の深さに魅とれ、深く神々に感謝と、慈悲を浴びる自我の喜びに感嘆したのもこの街ならではの経験かもしれない。。。

次の日の朝六時のビカネル行きのバスに乗り遅れた。

2011年4月18日月曜日

インドに魅せられて


インド

3月14日の午後、マレーシア経由でインドのケララに到着、早々ATMカードの暗証番号を押し間違った、、、 カードはキャンセルされた、、、 日本滞在が長く、しばらく使ってなかったせいか、携帯番号の下四桁を押したのだ。馬鹿だった。幸運にも財布の中に日本円で3000円持っていた。日本でならバス代と軽食がやっとだろうがインドでは大金になりなんとか切り抜いた。

インドはとにかく暑い。着ていた靴とジャケットを脱ぎ捨て、バスに飛び乗る、3時間ほどのバスで空港で会ったドイツ人、ハナと共にフォートコチに向かった。




フォートコチ

発展途上国、、、 その街はすさまじい。道ばたには牛や犬の糞、鳥やネズミの死骸、ホームレスの数にぼろぼろの建物、エンジンの爆音とゴミの燃える異臭、これまたすごい所にたどり着いた。だが地元の人たちは楽しく優しかった。かなりの人が英語も話せた。

初日ハナと共に、街を迷子になりながら散歩した。サンダルが壊れて裸足でその地面を噛み締めると、瞬く間に足の裏をやけどした。さらに災難が重なり、カメラを地面に落っことした。レンズが割れ使い物にならなくなった。こうして旅の初日はかなり重い記憶として始まった。

二日目はバックウォーターツアーに参加した。エンジンもない小船を長い竹の棒で押しながら小さな川をゆっくり進む。途中、インドのファームを見学したくさんのスパイスを見て回った。とても和やかな一日。そのツアーで出会った仲間と共に次の日、ビーチにバイクで向かった。交通ルールのないデコボコ道はかなり怖い。トラックやバスが手の届く距離を猛スピードで駆け抜けていく。土ホコリと虫が顔にあたる。だが皆無事にビーチに着いた。ビーチでたき火をしマシュマロを焼いて食べ、夕日を楽しんだ。帰り道は真っ暗で向かってくる車の光が眩しくその道は行きより遥かに危なかった。




バンガロー 

バンガローに向かう途中、公園でギターの練習をしていると、人だかりができ、小さな路上コンサートになり声援を受けた。けっこう楽しかった。バンガロー自体は大きな街で面白くないが、朝飯を探しに外に出ると旅人に会い、一緒に日曜の集まりに参加した。彼らもキリシタンではないが、地元の友達に会うかなにかで一時間ほど神に歌を、そして人生について話し合いをした。思ったことは宗教は俺向きではないってくらいかな、、、
そのあと地元の人たちに昼飯をごちそうしてもらった。

インドカレーはうまい!!!

大半のインド料理はベジタリアンだが、たくさんの鶏肉と香辛料のよく効いたカレーはインドならではだ。




ハンピ

さらに驚かされた。ハンピに着いたのは早朝五時。世界遺産の寺院を朝日とともにその街は輝いていた。神秘的だ。ゲストハウスの屋上に宿を取り目に入る景色に唖然とした。
数時間の仮眠の後、通りにで、自転車を借り、ハンピを一周することに、途中ドイツ人の子ミリアムに合い一緒にサイクリングをした。

ロッククライミングをするため次の日川を渡り、ゲストハウス、ゴアン コーナーに辿り着いた。まるで動物園だったがとても楽しい場所だった。そこで半年ほど前中国で一緒にクライミングをした仲間、アメリカ人のアンバーとスティーブに会った。かなりびっくり。

ハンピには二週間滞在、そのうち10日ほどは下痢に悩まされたけど、その甲斐はあった。回りのみんなも下痢だった。毎朝「おはよう」の代わりに「今日の胃の調子は?」で毎朝が受け答えされ、笑った。

ここでの生活は、サルか鶏、カモか犬の鳴き声によって毎朝起こされ、暑くならないうちに丘に登り、その終わることを知らない岩の数々でクライミングの訓練をした。大半は丘の上でゴロゴロしていた記憶もあるけど、、、 ゲストハウスに帰り、皆とおしゃべり、ジャグリングの練習やダムに飛び込みに行ったり、夕日とともにまた丘に登りクライミングを、日が暮れると皆集まり、ラウンジで音楽を。

そこでは二人の凄腕のギターリスト、ドイツ人ジョー、セブ、ラテン系のシンガー、ダニーとラウンジ系のシンガーヤナス、ドラマーが二人、ダニーとアメリカンのジェーピー。皆でハイになりインプロで音をあわせた。そのセッションはケミカルにより音色を絵に描いたように、そこにいる全ての意識の中を薄明かりとともに翔て回った。
月明かりだけの夜に皆で丘に登り、キャンプファイヤーをした。真夜中の静寂の中、透き通る星々を見上げ口ずさむリズムはハンピの最後の晩餐を心地よく過ぎ去ってくれた。

ここで集った仲間ドイツ人、ジョー、セブ、ヤナス、ダニー、4人、スウェーデン人リサとヤニース二、人と韓国人ゴン、アメリカ人ジェーピーのとともに意気投合し、ゴカルナというビーチに出ることになり、新たな旅路へと足を進めることになった。




ゴカルナ

仲間がいる旅路は一人でいるバスよりも心地がいい。デコボコの道路も愉快なリズムに揺れるバス、休憩所のトイレのような汚い隅も笑い話の種になり、長い旅路はどこか遊園地にでも向かっている気分になる。
午前の四時、インドの海の楽園と呼ばれるゴカルナに到着。暗闇の中波の音だけが聞こえてくる。みんなかなり疲れていた。泊まる宿どころか、何一つ動きがない。オムビーチという所まで歩き、砂浜の上にみんな寝転がった。星がきれいだった。
幻想的な一日は、朝日とともに始まり、輝くその波とともに数々のイルカによって迎えられた。

バンガローにハンモック、ビールに砂浜、キャンプファイヤーに夜間水泳、いいところだ。そして、やられた、、、初日の夜、疲れきったせいか確かめもせず泊まった宿にはナンキン虫が。体の半分をやられた、、、左の腹から足にかけ百に及ぶ噛まれた後。そしてそのかゆみ、、、後に一週間ほどかゆみに悩まされることになる、三週間経った今、黒く肌に旅人のタトゥーとして残っている。
それはそれで、そこではとにかく怠けた生活をした。泳ぎに出てはビーチで日焼けを、夜には円になりたき火を囲いギターとともに宴会を。そして夜の海の幻、フォレッセンスに又と出会う。その緑鮮やかに輝く海の妖精に見とれ波の中を駆け回る生活は今思い出しても幻の中に夢を見ているようだった。
フィッシュマーケットに皆で買い物に行った。太陽の照りつける中、道ばたの土ぼこりと共に、地面の上に並べられた魚介類は蠅の飛び交う中、ローカルの人々によって活気よく売買されていた。そこで半メートルほどのツナを四匹、車エビを二キロ、小さな見たこともない魚をたくさん買い、泊まっているゲストハウスに持ち帰り調理してもらった。チップスとサラダと一緒に食べた晩餐は今でも舌に残りアピタイトをそそる。
ビーチの端にある岩山に登り夕日を見に行き、そこで生まれて初めて夕日が海に触れるのを見た。まるで太陽が海に溶け込むように流れた夕日は五分となく海に消えていった。
ここではインド名物バング、ラシーを経験することになった。ビーチの端にあるカフェで飲んだラシーは、味はともかくその日の夜をゆっくりと笑いと波と共に運んでくれた。
そこには五日ほど滞在、そこから三手に別れ皆自分の旅路へと歩むことになった。
俺はムンバイに三人のドイツ人ジョー、ダニー、ヤナスと向かい電車に乗った。




ムンバイ

またもや早朝四時。しかし今度は大都会ムンバイ、疲れきった体にチャイを流し込み、タクシーの運転手と交渉に励みホテルを探す。一晩500ルピー、その宿は今まででもSクラスの汚さだ。ネズミの走り回るトイレと廊下、部屋に入ると薄暗いそこにはゴキブリがベットの上に見え隠れし枕の下へ隠れていった。ナンキン虫のチェックをし、泊まることに。笑いが出るほどの経験だった。朝起き、朝の「仕事」に行くと詰まったトイレから溢れ出る糞の塊が鼻と目に滲みた。吐き気を我慢しながらも使った自分に感動する。そしてそのホテルのオーナー。腫れきった目に話の噛み合ないほど遅い反応、完全にイッテル。そしてその愛想のなさ。最悪だった。
街を彩る雰囲気はあふれる物乞いとホームレスにより凄まじく、対照的にスーツを着た太ったインド人達を印象的に薄暗く輝かせる。
カメラのレンズを買うために出たその旅路は凄まじく遠く感じられ、炎天下の中人ごみをかき分ける自分を目の見えないネズミのように映し出され息苦しかった。

他三人は次の日ドイツに帰国、楽しかった騒がしい生活に別れを告げまた一人旅が始まった。



ウダイプー

ウダイプーはきれいな街だ。もちろん景色や建物のことであって、環境的にはかなり汚い。街は坂が多く、色とりどりの建物が無造作に並んでいる。すごくにぎやかで街中からインド楽器の音色が、がやがやとその雰囲気を埋め尽くしていた。街の端に湖があり、真っ白な高級ホテルがそこに浮かんでいて景色を飾っていた。もちろんその湖は触る気を起こさせることない汚さに埋もれているけれど緑色に輝く公害は現実味を帯びず幻想的だった。
ホテルには誰も住んでなかったので今まで取り集めたビデオ作成に励んだ。その日の夜、ハンピで会ったドイツ人ミランとルイッサに会い夕食を一緒にラガールというゲストハウスで食べた。そこには池に面したテラスがあり、心地よい夜風と景色を堪能し、そこで出会った仲間と旅について話し合った。
次の日の朝、そのテラスに戻り、ギターの練習をした。




プシュカ

ウダイプーで皆の勧めにより、プシュカに向かった。思ったより観光地として成り立っているこの街では土産屋や物乞いが多くあまり面白くないかもしれないが一週間があっという間に過ぎた。ほぼ毎日尾お馴染みのカフェでチャイを、そこで出会う旅人達とダラダラおしゃべりをし、暑過ぎる日中はゲストハウスに帰りゴロゴロと、日が暮れだすと夕食のため街にウロウロと、素敵な生活だが人には飽きという物がある。
ここでも一晩バングラシーを飲むはめになった。ノリとは怖い物だが、経験とはそれを上回る好奇心によって生まれる。カフェでカードゲームを楽しんだ後外へ出ると、何もかもが閉まっていて、暗かった。その暗闇の中にそびえ立つ建物と、不気味に視線を送るインド人の間を、牛がたたずんでいる。そこで俺らの笑い声だけが通りを駆け巡る。その空気はまるで夢の中で息をしているようで現実感からほど遠く、さらにプシュカという土地を神秘的な距離を感じさせた。
なるほど、こういう旅も悪くないかもしれないとインドのイメージは独り勝手に街灯の逆光に消えていった。




2011年3月25日金曜日

東京にはお寺がいっぱいあった。
修学旅行だろうか、高校生達がわいわい街を歩く姿がなつかしい気分にさせる

 梅の花が咲き始めた
四月にこればよかったな〜

 神隠しに合いそうな雰囲気の狐の石像
 昔の街並も少し発見
 浅草
 優雅に泳ぐコイ
 原宿で見つけたアートハウス
面白いギャラリーだった
サーカス デ スレイを見にも行った
とても感動

東京ではなにもかも値段が高く、写真も撮れない所が多く、こんなもんです、、、

2011年2月21日月曜日

来ました!!!


二月二十二日 長崎発東京行き、開きっぱなしのバックパックに夢をつめ直し心臓がドキドキしてきました! 日本で三ヶ月が今過ぎ、平和慣れし、体重も8キロ増やしてしまった俺にこれからの旅がどうなってくるのかわからないが、いってきます!