2012年5月30日水曜日

11日間 北欧で

さてさて、ベルリンの冬も終わり、春の兆しが街中に見られるこの頃。仕事場から12日間の休みをもらいノルウェー行きの航空券を購入。ちょっとした旅行を計画した。今はベルリンのテゲル空港、早めに到着した空港の中で一人時間を潰している。国際空港にしては意外に小さくほっとしている。ノルウェーの空港ではメルボルンでシェアをしていたトーマスが迎えに来てくれる予定で気楽な出発ではある。友人とはありがたい。
 
今回の予定は、ノルウェーの首都オスロに四日、デンマーク、コーペンハーゲンに三日、ドイツのハンベルグに四日ほどの計画ではあるが、予定通り行くかははっきりしていない。未だにオスロ行きのチケットしか持っていないのだからしかたがない。前予約だといろんなチケット代は安くなるというのに、なかなか決まらない予定に自由を感じていいのか、不安を抱いた方がいいのか、無計画な自分にあきれる。しかし今回は期限があるからで、いつもなら計画なしの旅が好きだ。




一週間はつかの間に過ぎ、今ハンベルグに向かう電車の中、真っ平らに広がる広大な草原が窓の向こうに流れて行く景色にぼんやり視線を向けながら、この8日間のスカンネジアの旅の思い出にふけった。オスロに着きトーマスの出迎えのもと街を観光し、週末を飲み明かし、バスでスウェーデンのマルモに行き、インドで出会ったリサと再会。リサの住む農家と牧場しかない田舎町で二日過ごし、慌ただしくデンマークのコーペンハーゲンで二日間の観光を楽しみ、久々の観光旅行と呼べるような、慌ただしく時間と移動に追われ、しかも巨額な旅費を費やされた一週間だった。




窓の外にデンマークの住宅街が広がる。オレンジがかった屋根に褐色の壁に囲まれた家がいくつも並び、落ち着いた雰囲気を持っている。心なしか静寂に広がるその景色は僕に淋しさに似た印象さえ残して行く。今がまだ冬だからだろうか、澄んだ空気は透き通るように景色をはっきり目に映し出し、平坦なデンマークの大地を遠くまで見渡す事ができた。時より枯れ果てている林が唐突に草原に現れ、平凡な空間に立体感を与えてくれた。




一日目、オスロで。空港まで迎えに来てくれたトーマスと再会し、この四年間と言う空白の時間を語った。
オスロの第一印象はその澄み切った空気、突き刺さるほど密度の高い酸素に襲われるような錯覚さえした。車で街に向かい、ほぼ中心街にあるトーマスの家に着いた。トーマスは一人暮らしをしていたが、かなり贅沢なアパートに住んでいて、この四年間の就労の差というのを感じた。荷物を置いてすぐ家の近くを見て回った。高原にでて街を見下ろし、ムンクのお墓を参拝、夕食を終えヴォッカを開ける。酔いが回って来たとこで街へとでていった。ほとんど会話だけで過ごした一日だったが楽しかった。

二日目、トーマスの案内のもとオスロ観光をした。“Vigelandsparken Sculpture Park” 石像公園?を回り、オスロの名所the Monolithを拝んだ。オスロにはたくさんの石像が存在するがそのほとんどが裸体像だ。街としての趣味が疑われるが芸術的で独特な雰囲気があった。それからオスロのオペラハウスを見に行き家に帰った。晩飯にリゾットを作った。




ここでいうのもなんだが気になって仕方がない。今、ハンブルグに向かう電車の中だが、隣に座っているじいさんの屁が臭い。これで何度目だろうか。10回は当に超えている。かなり臭い。鼻がもがれるような異臭が空気を埋めるたびに外に目を向ける。風力発電が盛んな北欧の草原の景色に風車がいくつも見えた。あんなにも風車は回っているのに、どうしてここの空気だけこんなにもモンワリと重たいのだろうか不思議で溜まらなかった。うわ〜また来た〜




それはさておき、二日目の晩はトーマスの友達の家に行き飲んだ。ここで数人のスウェーデン人に会って盛り上がったのだが、会話の中心はなんと日本の漫画。オタクにも劣らないギーク達。今、漫画という話題の会話は国境を越え世界中で盛り上がる。ワンピースにナルト、人気番組はもちろんのこと、次々と話題がでてくる。デスノートは誰もが疑わないフェイバリットで、アキラや鉄腕アトムなど古いものにも皆熱くなった。大人達は言った、漫画ばかり見ているとバカになる。今漫画は日本の文化となり、日本のアートとして世界で認められていると僕は言いたい。




ハンブルグへの途中の電車、電車ごとフェリーに乗り込んだ。まったく予想もしてなかったので結構驚いた。フェリーの中で電車を降りフェリーの中に入ったのだがこれまた豪華客船。レストランに土産屋、そして面白い事に免税店。慌てて北欧人達が免税の酒へと列を並べる様子は北欧の物価の高さを物語っていた。フェリーの鋼板にでるとそこには澄み切った青空が広がっていた。空がこんなにも青々しく広がった世界は此処と無く現実味に欠け、体が凍り付くほど寒くなるまで、冷たい海風を感じる事を忘れていた。




ドイツに入ったなと感じたのは色からだった。
青い屋根に茶色と白の外装、姿形はほとんど一緒なのにメインとなる色がはっきりと変わった。草原はより濃く緑に染まり、青々とした平原が目立った。
もう一つの感動は風車。一度、数十も並ぶ風車達の、かなり近くを電車が通り過ぎたのだが、その大きさと、緑輝く広大な農場でゆったりと回る機械仕掛けの塔に不思議な感覚を感じた。まるで巨大なロボットが世界を動かしているかのような、本当に世界は生きていると風が教えてくれるような、そんな感覚だった。
月が見えた。真東の地平線状に薄らと浮かび上がっていた月は何も語らずひっそりとしていた。




とにかく今はオスロの話をしよう。三日目の朝はとにかく二日酔い。ゆっくりと目を覚ましその日の計画を立てた。朝食後ムンクの美術館に行った。叫びを描いた有名な画家だ。オスロでほぼ生涯を暮らしたそうだが、いろんな国でも絵を描いている。異色な絵を描く人だが認められるまでに何十年と評論家から批判を受け、何千と絵を描いたらしい。ムンクも荒れた人生を過ごし、波瀾万丈に生きていたらしい。芸術家とはそうなのだろうか。




三日目の夜はトーマスの友人に夕食に招待されスウェーデン料をごちそうしてもらった。大きな肉団子と蒸したポテトと人参をクリームソースとベリージャムと一緒に食べる。肉を甘いものと食べる事はあまり知らなかったのでちょっと驚いたがかなりいけた。ドイツから持って来たヤガマイスターを二人で一ビン開け、ノルウェーについて話したり、昔の友達の事や旅、ノルウェーでの生活について話した。それからトーマスと二人で夜の街へとでかけた。紙切れのように貨幣が飛ぶ。数杯のビールが聖水のように流れる。ノルウェーの夜は豪華にも万単位の貨幣が便所へと流れて行った。

三日酔いで目覚めた日曜の朝はゆっくりとトーマスの家でくつろがせてもらった。トーマスは親元の家に出かけたので一人でアニメを見たりして時間を潰した。
その日、夜行バスでスウェーデンのマルモという田舎町へ向かった。トーマスにバス停まで送ってもらい、夏にフランスで会おうと約束をしオスロを後にした。




今はハンブルグからベルリンの電車の中。73ユーロ、たった一時間半の移動にこんな額を払ったのは初めてだ。見くびっていた。ドイツには他人の車に乗せてもらって移動するという独特な交通手段もあったのにそれを使わなかった事を今になって後悔している。





マルモ。スウェーデンの南に位置する小さな街。とても穏やかで、静かな場所だった。朝の六時に到着。古風な街並に差し込む朝の日射しは澄み切っていて、幻想的ですがすがしかった。駅のカフェで少し時間を潰し、少し温かくなってきた九時前ごろ街を歩きに出てみた。大きな公園を見つけたのでそこらをぶらぶら。オープンテラスを見つけたので一休みついでにギターを取り出し、独り、朝の霖とした空気の中で小さな音色を奏でてみた。三十分もすると手がかじかんできそそくさと街へと戻った。
マルモにはインドで共に旅をしたスウェーデン人のリサと再会。朝食後リサは学校に行き俺は独りで街を歩いた。とても穏やかできれいな街だった。二時間も歩くと街のほとんどを歩き終わってしまったほど小さな街だった。それからリサと合流、リサの家に連れてってもらった。
リサはマルモからさらに電車で三十分くらいはなれたHässleholmいう田舎に住んでいた。回りには森林と牧場。無限に広がる広大な大地にリサは住んでいた。お隣さんが一軒、半径一キロあたりに50人は住んでいるのだろうかと、本当に小さな村だった。
リサの家に二日間泊めてもらい、その家族に食事まで面倒してもらった。感謝感謝。二日目は家の回りの森林をぐるりと回り馬など見て回った。今になって乗馬しとけばよかったなと後悔、、、 そしてその日、リサの兄に子供が生まれた。そんなめでたい日に立ち会い申し訳ないと、お祝いの夕食をほうばりながらお祝いの言葉を告げた。リサと旅の話など一晩中盛り上がり、慌ただしく過ぎた日は早朝の寒風に頬をたたかれ、デンマークに行く電車へと身を乗せた。




所変わって今はベルリンからハンブルグに向かう車の中。時速160キロでドイツの高速を駆け抜ける。ドイツの高速には制限速度はないと運転中のフィルは笑っていた。
スカンジナビアから一ヶ月、車窓から見える景色は時に見渡す限り広がる緑の広原、黄色の絨毯のように無限に輝く菜の花畑、春の訪れを生き生きしく伝えてくれた。ついでにドイツの国の広さも。日本の国道ではまず考えられない平地の広さだった。




そこはさておき、今回の車は友達でもヒッチハイクでもない。Mitfahrzentrale | mitfahrgelegenheit.deというウェブサイトがドイツにはあり、個人的に目的地に行く車を探して連れっててもらうのだ。電車だと73ユーロの片道切符、今回の車の運賃は15ユーロ。なかなかお得な手段である。その仕組みはというと、フィルは今回仕事でベルリンからハンブルグに車で行かなければならなかった。車には三席の空きがあり、それにともないウェブサイトに広告を載せる。日付、時刻、値段。そして他人を募集し車に同伴させ運賃を取る。ガソリン代の高いドイツでは独りで行くとコストな旅費もこうやってまかなってもらうという仕組みだ。俺はその広告を見つけ電話で連絡をいれる。口約束だけで交わされた即決な契約は守られ、指定の場所に約束した時間に到着、初めて会い、挨拶をし車に乗せてもらった。ドイツで一番安くて簡単な旅の方法だと思う。ただ全く個人的な契約なので保証はされていない。それでもそれの悪い話はまだ聞いた事はない。今回俺はかなりラッキーな方だとは聞かされたけど。




順を追って行くと今はコーペンハーゲンの話をするべきなのであろうか。あれから一ヶ月半が過ぎている。簡素な日記と写真を見ながら何をやっていたかを思い出す。全く持って怠けている。今日からまた新しい旅が始まる言うのにやる事が山積みだ。




とにかく久々のバックパッキングだ。コーペンハーゲンには知り合いはいなかったので、ホステルを探さなければなかった。いつも通り、その土地の情報やガイドブックはなし。駅から出てとりあえずきょろきょろと辺りを見渡す。先進国、たいていの駅には観光者用に情報誌やインフォメーションセンターがある。とりあえずそれを探す事から始まった。今まで見つけたインフォの中で一番頼りになった。地図からホステル、全ての情報と人のいいスタッフ。すぐさま泊まれそうな場所を見つけ大通りへと足を向けた。
ホステルの値段、、、 さすがにスカンジナビア、予想通り破格だ。八人部屋で一泊185クロン、25ユーロ近くした。それ以外に安いのも見つけきれず、一泊だけの予定なのでとりあえずチェックイン。街へと歩いた。

コーペンハーゲン、今回のスカンジナビアで見た中で一番感動を得た。そびえ立つ古びた建物の数々、歴史と文化を感じさせてくれる。街の中心部には車は通らず、雰囲気のいい通路はたくさんの人で賑わい、久々に興奮さえ憶えた。おしゃれでユニークな店の並ぶ通り、広場に現れる花屋、賑やかに音を奏でるストリートミュージシャン、そして振り返りたくなるほどに香るパンケーキの香ばしい匂い。歩いてみてとても清々しい旅路だった。

それからコーペンハーゲンの見所とでも言うべきか、日本では知られざるもヨーロッパでは有名な観光地クリスタニアに足を踏み入れた。
治外法権?とでも言うべきか、コーペンハーゲンの街中にぽつりと現れるこの小さなエリアでは認められざる暗黙の国が存在する。
入り口には看板があり、そこにはその国の法律が示されていた。一つ、この国を楽しむ事。二つ、住民が慌てるので走るな。三つ、写真禁止。
クリスタニアでは独自の貨幣を所有し公明にマリファナが売買されていて、その他にもキノコやなにやら。ヒッピーな文化を取り入れたアートや工場が存在し面白いところだった。湖に囲まれていてとても静かで自然ある心地の良い場所でもあり、多くの人が水辺でのんびりしていた。
印象に深く残ったのはメイン通りから外れた住民の家。独特なデザインに古風な彩り、まるで不思議の国にでも迷ってしまったかのような気持ちになる。大木の上に見晴し台があり登ってみた。湖が見渡せて心地よく、緑溢れる木々の間から小さな屋根が彩るように顔を出していて、一休みには最高の場所となった。
そこでドイツ人のカースティンとその友達に出会い、クリスタニアを案内してもらった。クリスタニアの奥深くまで案内してもらいたくさんの面白い家々を見て回った。なんでもそのエリアは戦時中、戦艦の船着き場、軍の要塞地として開拓されたそうだが使う事無く放棄され、ありとあらゆる人々が住み着いたそうだ。そして国柄なのか強制立ち退きなどもとくに起こることなく今のクリスタニアが存在するのだと。それからカースティンとコーペンハーゲンの夜の街に飲みに出た。コーペンハーゲンのバーを何件も回り、酔っぱらいと意気投合し、街をふらふら、夜は更けて行った。面白い一日だった。

次の日は数時間を公園で過ごしハンブルグへの電車へと身を投げた。





ハンブルグ

コーペンハーゲンで感動的な街並を見た後だったので、少し印象に欠ける。とにかくもう一ヶ月経ってしまっている事に問題があるのかもしれない。
ハンブルグに来た目的は大昔のシェアメイト、メルボルンで最初に一年間過ごした友達ミリーに再会するためだった。懐かしの再会に感動し、よく飲んだ三日間だった。

二日目に少しばかり街を一人で歩いて回った。日本人が桜の花見をしていた。潜水艦を発見、中を見て回った。観光者はとても多く、街は騒がしかった。
ミリーとそのシェアメイトのクララ、とマリーを招いて夕食を振る舞ってあげた。白魚のソテーに茄子のトマト和え、それを重ねてトマトを間に、オーブンで表面をカッラとさせ
クリームと白ワインのソースをたらしてガーリックライスとサラダで夕飯は盛り上がった。料理とは楽しい。それからギターを弾いて、歌って飲んで、一日は過ぎて行った。
ドックスというクラブにも行ってみたが人がいっぱいで大変だった。
ハンブルグでは特に何をするでも無く会話と料理で盛り上がった。
そうやって11日間という北欧でのホリデーは過ぎて行きベルリンへの帰路へと着いた。



ベルリンに帰宅。ホリデーは終わり、また元の生活に戻り、バイトと飲みに明け暮れ、ベルリンを出るまでの二週間を過ごした。

2012年5月14日月曜日

ベルリンでの生活

 マイナス20度の経験とチャリで通う仕事。
初めてマイナス二十度以下を経験した。寒いなんてものではなかった。痛かった。頬に痛みを感じることも感覚を失い手袋をしていた手でさえもかじかんできた。足の指先は凍りついたように痛みを伴い、太ももでは履いていたジーンズの布の感覚が鮫肌のように肌を擦っていた。
そんな中、一着6パウンド、役千円の安物ジーンズと、上着三つ、シャツにパーカーにジャッケトのみだったので仕事仲間からも驚かれた。それでも極寒の中、風邪という風邪はひかず元気に毎日チャリで通勤した。

街に流れる川の凍結と、その氷上を歩く体験。
今年のベルリンの冬はかなり短かったと聞く。それでも二週間ほどだったが家の近くの川が完全に凍結した。雪もそこそこ降って一週間ほど真っ白な雪景色へと街は染まった。帰り道の夜中、橋の上から川をのぞくと、当ても無く続く一つの足跡が川の真ん中を終わり無く続いていた。
次の日の朝、家の窓ガラスまで凍りつくほどの氷点下。それから決心。歩いて仕事に行く事にした。正解!川は完全に凍りつきたくさんの人が通行、賑わっていた。何人かはアイススケートで川を走る。数キロクラスのスケートコースだ。アイスホッケーをして遊んでいる若者。ソリまで持ち出して遊んでいる子供達。冷えきっていた街の暗い雰囲気に一気に笑顔が溢れていた。
自分の家から仕事場までのほとんどが川沿いだったので、凍った川の上を通勤路として滑りながら一時間以上欠けて仕事場に向かった。凍った川の上を歩いたのも初体験。スケートシューズを持ってなかった事を後悔した。

週末のパーティー、クラブ通い。
ベルリンではパーティーを探す事に苦労はしないだろう。いつでもどこでも。特に春先から夏の終わりにかけてまでは、オープンエアーパティーと呼ばれる集まりは面白かった。

ベルリンを訪ねに来た友人達と、ベルリン観光
JP, ことジョンポールがベルリンを訪ねてきた。初めてのベルリン観光。三ヶ月以上も住んでいたのにベルリンの事を何も知らなかった。ベルリンの壁を共に見に行き、ユダヤ人のお墓を参拝。ヒットラー演説の大きな門を見て、チェックポイントをまたいだ。そうやって一日は観光で過ぎて行き、飲んで話して、過ぎて行った。それからヤナとノラと合流し一晩中飲み明かした。
ジョンはシェフでもあったので共に料理をして、調理について熱く語った。
四日間くらいだったろうか、時間は一週間前の二日酔いのように消えて行って、ジョンはプラーグへと向かった。


ストリートアートと絵の練習
ベルリンには所々にストリートアートが描かれている。見渡す限りタグがされていたり、ビル一つ分の巨大な絵が描かれていたり、大きさも種類もいろいろあって楽しい。見飽きる事のない素晴らしいものから、雰囲気を台無しにしてしまう落書きまでそれぞれだが、ストリートアートだけを目的でベルリンを歩いてもとても面白く、終わる事を知らない。ベルリンに来た目的のひとつは絵を描きたかったからだ。その終わる事を知らないストリートアートは僕にもっと絵を描かせるやる気へとつながった。ベルリンに来てよかったと思える一番の理由だ。

グッドナイトサーカス
ドイツの音楽のセンスには少しがっかりさせられていた。どこに行ってもテクノが流れている。イギリスでフェスティバルの経験をした後だったので余計に比較してしまって文句ばかり出ていたところだった。
そこでベルリンをでる最終日、そんな偏見を変える目的も含めて、お別れ会として友達をグットナイトサーカスのコンサートへと誘った。ベルリンのバンドでシャーレストン音楽を奏でるバンドだ。会場は名前はわからないが、まるで小さなお城のように暗闇にそびえ立ち、重い扉を開くと大理石でできたホールが広がり、場違いな場所にでも来たように少し気後れと興奮が胸に湧く。中にはまるで映画の中のような小さなダンスホール。心が躍った。
ビールを片手にライブを待つ。みんながこんなとこでいいのかと心配していたが、三十分くらい静かな音楽の中で待った後グットナイトサーカスは堂々とステージに経ちお気に入りの曲Moonlightからコンサートは始まった。一分と経たないうちに会場はたくさんの人が手を取り合い踊りだした。その旋律はアップテンポでじっとしていられなくなる。足が勝手にステップを踏み、ただただ笑顔になってしまう。そんな幸せを運んでくれる音楽がそこには溢れていた。友達もみんな気に入ってくれて、気づけばステージの一番前で踊っていた。ほんとに楽しい夜だった。別れの淋しさも忘れさしてくれる音楽で、一日は過ぎて行き、朝日の出るまで友人と語り合ってベルリンの生活は幕を閉じた。


御託
ヨーロッパのほとんどの学生は国から学費を借りて学校へ行く。卒業してから働いて金を国へと返すのが一般的らしい。国民に技術を身につけさせるのは国の役目と。日本もそうなってほしいものだ