2011年1月23日日曜日

上海


フィリピンから飛行機で四時間くらいだったろうか、赤道から離れ北半球の気候となった。気温は約10度。裸足でサンダルにタイパンツ、そして薄いジャケット一つで寒い大都会の街を歩く光景は滑稽だったろう。道行く人に大丈夫か、とよく聞かれた。そこで気づいたのが上海の人は結構優しいし気遣いがあった。万博のおかげもあったのかこの都市の成長は凄まじく中心部はとても住み心地がよさそうだ。少し風邪をひいたが次の日、靴と靴下にジーンズの買い物に商店街を歩いた。パチ物と安物の天下だが驚くのはその建物の大きさと品物の多さだ。通りに商品が山積みになっているところもある。メイン通りは整備され、大理石に包まれた高級品店やブランドものの店もある。
様々な人種からなるあふれる人口、最新の技術と独特なデザインの高層ビルディング、それに比例するように生まれた貧富差という隅に置かれる実情、廃墟化していく古い建物と都市のホコリを請け負うような裏町、上海は中国という巨大な国家の中に凝縮されたエネルギーの塊だと俺は感じた。

誰もがテレビなどで同じみのバンド街の景色。
川を挟み対岸に真新しいビルディング

そして重々しく立ち並ぶ銀行の数々。

万博に行った。人の数に驚かされた。

裏町の店。食べながらつばを床に吐くなど凄まじいし、汚い店だったが味はよく、とにかく安かった。

少し歩くと風情のいいローカルマーケット。観光者とか外人は一人も見なかった。

気に入ったので友達にもらった上海道路の写真。

すっかり観光化された古い街並。でも見てて楽しかった。



この街で地元に帰る決心をし約8ヶ月の東南アジアの旅に別れを告げ飛行機で福岡に飛んだ。バックパックの中にはゴミだらけ、頭の中に少しの知識と経験。世間の常識という物にもっと疑問を持ち、一時休戦と宣言をし、次の旅に備える。とりあえず今満足するのはこの感激と衝撃、災難と困難にヤケクソになった旅だ。

福岡に着くと自分のクレジットカードが使えなかった。所持金300円。博多駅で立ち往生。バックの中をあさると10年前のテレカが。使えるかどうか不安とともにダイアルを自宅に回す。親父がでた。親戚に連絡をくれ迎えにきてくれた。電車代と笑顔。それでよかった。地元の駅まで親父が迎えにきてくれた。ここで初めて気図いた。あ、ここが俺の育った街なんだと。地元だと。うれしかった。

2011年1月19日水曜日

フィリピン

ヤンシュオから約10時間だったろうか、香港国際空港に着く、はずだった、が、その日は中国の一年で一番長い連休の最終日。交通渋滞に巻き込まれ、六時間遅れで空港に着いた。ちょうど乗る予定だった飛行機が飛び立った後だった。空港内を走り回りどうにか六時間後の次の便でマニラに、もちろん乗り継ぎも逃しているので、マニラ空港で次の乗り継ぎを八時間待つ。空港の警備員達とギターを弾いて時間をつぶした。カリボに飛びボラケイに船で、ジーップニーに乗り街へ。行ったのはいいがここは観光者のパラダイス、真っ白なビーチに透き通る海。すぐそばには装飾の彩る豪華ホテル、完璧に訓練されたウェイターに、通りには余るほどに並べられた海鮮バフェ。ほとんどリゾート化されていてホテルは高い。ダイビングも、、、一泊し次の日出ることに。
ビーチ沿いの道を離れると貧しさが浮き彫りになるのが心に痛んだ。だが観光にくるならかなりいい所になりそうだ。

船で本島へ、バスで7時間イロイロへ、船で”二日間”クヨ島経由でプエルトプリンセッサに入る。ジーップニーに乗り約9時間、国立公園に立ち寄りアンダーグランドリヴァーを確認。ヒッチハイクを試みるが日が暮れバスでログザスへ六時間ほど、そこで一泊しさらにバスで六時間ほどエルニードに向かった。そこで泊まるつもりだったがタイで会った友達に会いコロンに一緒に向かうことに。八時間後船に乗り込み12時間の夜行船旅。結局8夜9日動き通した。旅というよりは取材に近い物を感じた一週間だったがいろんな経験ができて楽しかった。

船の中の様子。

途中で休んだクヨ島。穏やかで心地いい島だった。

クヨ島の駄菓子屋。パンとかで食いついで旅をした。

フェリピンの交通手段。ジープニーと呼ばれる。とにかく安いが行き場所を探すのには少し苦労した。

みんな優しく、道を教えてくれたり、会話をしながらの旅。

ジープニーはよく込む。年寄りに席を譲り屋根の上に乗って移動中。道の整理状況はあまりよくなくけっこう揺れる。

人力車。安くてけっこう約にたつ。

ヨットで旅をしているカップルにジープニーの上で出会った。そのヨット。

ヨットの上で昼食を共に。



コロンでダイビングを二回。日本の沈没貨物船などがたくさんありおもしろかった。山の上に温泉などもある町、雰囲気もよくここで初めて四日ほど休んだ。

そこからマニラに飛び、ナガという地方に飛んだ。その近くにクジラとシュノーケリングできる場所、ドンソールがあるのだが、この日から天気が崩れ雨の日が多くなって最後には台風まで来る始末。大雨と強風、屋根や壁が空に舞っていた。貧しい地方での災害対策の弱さを身にしみた。その週に台風の影響で30人ほど死者が出たほどだ。

ある晴れた日ビーチに向かった。

そこで会ったローカルの人たちに晩飯をごちそうしてもらった。

頼もしい兄弟。

ナガで毎日食べにいったストリートフードの店のおばちゃん

ナガの街並はスペインの影響もありおもしろい。

古い鉄道はただの通りに

屋台

鶏の頭でさえ食べる。なかなかだった

ナガでウェクボーディングをした。思ったより難しく、何回も水に打ち付けられた。

 フィリピンは悪天候に見舞われ、あまり楽しかったとは言いにくいが地元の人々はとっても優しく、異色の文化に触れられて興味深い旅となった。







2011年1月14日金曜日

でかい! 中国

サパから約二時間、ベトナムと中国の国境沿いにたどり着きベトナム最後の昼食を入れた。店の人は心地よく笑顔で周りの客にも親しくされた。問題なくベトナムを抜けると川をまたいで中国領へ、そして大使館の中に入ったときに雰囲気は変わった。入国のための列に入ると押し出され、どなられ、おばさんには中指を突き立てられた。通り終わるまでけっこう苦労したがそれは始まりにすぎなかった。無視、軽蔑、あからさまな詐欺、ベトナムに帰りたくなったほどだ。バスを探し一時間ほど歩きあきらめた。タクシーのようなミニバスに乗り二百メートルほど、歩ける距離にあったが誰も教えてくれなかった。ぼったくられた。そしてバス。目的地はyangshuoだがNanningを経由しなくてはならない。が、アルファベットでしか目的地を知らずかなり不確かな気持ちでバスに乗ったバスは「南京」行き。何となくNANningが 南ningと自分で読んで乗ったバスだ。質問をしても無視ばかり、笑顔をしても睨まれ、寂しかった。そして何も知らずに乗っていたバスはなんと南京まで34時間。席はベットだが横に肩幅がぎりぎり、足は窮屈に曲がり、高さが一メートルほど、三段ベットが上に横に、の真ん中に横たわっていた。真横に狭い通りがあったが人が寝ていてその人の足の匂いがきつい。さらに目の前50cmくらいにテレビが中国映画を放映。多分十作近く見ただろう。言葉はわからんかったが、中国映画はけっこう面白かったのでそれはすくいだった。途中のトイレにもあっと言わされた。溝だけがありお隣さんがこちらを向いて糞してる所で排尿。南京に着くとそこはでかい街だった。飯屋では相手にもされない。バスの人たちに騙され連れ去られそうになりながら、自分はどこなのか店にあった地図で確かめる。観光客なんて一人もいない。人々は生きることで精一杯だった。忙しさが人口の多さを強調するように人の波ができ、俺はそこに飲まれ息が詰まった。バス停で死んでいく赤ん坊を抱きかかえ泣いているおばさんを見た。自分の無力さと貧しさの非情さに胸が痛んだ。そこで六時間次のバスを待ち、Yangshuo 行きのバスが来た。そのバスでYangshuoで観光業で働くフランス人の女の子リンジーに会った。嬉しかった。言葉が通じる、心情がある、知性が近い、ただそれだけなのに人は友達になれる。たどっていた道があっていたのでほっとした。バスに七時間、Yangshuoの話を聞かしてもらった。Yangshuoに着くとそこにはライトアップされたけわだつ山々、古風な中国の雰囲気の道並み、カラフルなネオンサイン。アニメの中のようだった。リンジーと夕食をし、ゲストハウスまで紹介してもらった。たどり着いた所は、Showbitz innスタッフはとても明るく優しかった。挨拶をしとりあえずベットに入り寝た。

ヤンシュオ

とてもいいところだ。

この街にそって流れるリー川とその辺りの景色

サイクリングで川を上っていった先にはドラゴン橋、飛び込んだ。

ロッククライミングで有名なこの地はたくさんのクライマーであふれ、毎日岩登りをして過ごした。

クライミングの場所まではいつも困難が付き物。山道、真夜中、田んぼ、川沿いなどなど

尊敬する人、この子はすごい。

上から撮影

クライミングの後はやっぱり川でひと汗流すのがいい





 香港に途中行った。大都会。何をするにしてもお金がかかる。

きれいなところだった。
三日でヤンシュオに帰った。



グイリンと呼ばれる所にビザの更新のために行った。

近くにあった段々畑を見に行った。

俺から見た中国の色。



ヤンシュオに帰りクライミングフェスチバルに参加した。
そこでは想像を超えた経験が待っていた。


ルオ チェン ロッククライミング フェスティバル

4泊5日、参加費なし、交通費込み、食費負担、宿泊量無料、アルコール類支給という前代未聞の見出しに気を取られ参加したこのツアー、実は政府からの援助と自治団体による地域の復興目的に結成されたイベント。ほんとに驚かされた。自分を含め外国人約20人、中国人30人あまり、時間道理に迎えにきたバスに乗り込み、周りの人たちと挨拶。誰もどんなツアーになるのかはっきりせずうかれていた。ヤンシュオから約六時間ほどだろうか着いた先でホテルの立派さに驚いた。一人一部屋、でかくてきれい、けっこう高級でちゃんとした場所だった。昼食にも驚かされた。毎日朝昼晩、高級中華料理で満腹になっていた。夜になると出迎えセレモニー。約八千人、街中の人たちが広場に集まり、歌やダンス、伝統芸を三時間にわたり披露。赤い絨毯はなかったが、人並みを警察に守られ何百というシャッターを目の前に歩く気分はまるでセレブだった。

空気汚染が激しく夕日が皮肉にも幻想的に落ちていく

予定は綿密に決められ、次の日は六時起き朝日とともに慣れない頭を抱え豪華な朝食を終えると早速パトカーによる警護のもと地元交流会。一つ目は植木をした。何千人と過言でない人の列の間を拍手とともに歩き通り着いた庭地には植木は完成しているが、シャベルでひとかき土を上乗せ、カメラに向かってポーズ。最悪に汚染された湖を30分ほど懸けてみんなで行進。迎えられたバスに乗り込み次の目的地に向かい昼食を。民族衣装に身を纏った人に歓迎され川岸でのパーティー。昼食後、川でひと泳ぎ。次の場所で見所のムーンヒルと自然にできた山のアーチ。何もかもが壮大だった。
次の日に初めてクライミングコンテストが行われた。場所はムーンヒル。ランクは8bと8c 。全くと行っていいほど無理だった。何人かはクリアしていた。

次の日も同じ場所で最終選考。そして街の広場でボルダリングコンプ。ランクの高い壁しかなく、悔しい思いばかりだったが、賞を一つ受けたのでうれしかった。このフェスチバルに参加するためクライミングシューズを買っていた。その金額は500ウォン。約8000円ほどだがまったく一緒の額の懸賞金を受けた。その賞はビューティー賞。みんなに笑われたがうれしかった。最後の日はみんな泥酔し夜通しはしゃいだ。


予想に全く反した五日間だったがこれはこれで思い出深い楽しいツアーだった


その後もヤンシュオに二週間ほど滞在しクライミングに明け暮れる毎日になった。朝起き、待ち合わせの場所に集まり、ロケーションを決め自転車に乗り走り、限界まで登り続けた。みんなでビーチパーティーもした。ゲストハウスの屋上でギターを弾いて休む日も。最後の日にはムーンヒルの頂上に登り爽快な空気を肌に感じた。

そして、別れの日。ゲストハウスのみんなと、クライマー達に別れの酒を酌み交わし一人フィリピンに向かいバスに乗った。クライミングとはパートナー達と命を預け合い、信じ合い、共に励まし合って自分らの限界に挑戦し、上にたどり着いたときの興奮を分かち合うスポーツだ。別れは痛かったがいい思い出として胸に残る。今でもみんながビレイをしてくれていて、上に登る俺を見ていてくれる気がする。

2011年1月10日月曜日

ベトナム

カンボジアの国境から約二時間、プレイクという街に着き、八時間待ちのバスを待ち、サイゴンに向けて乗ったバスが思い出の中でかなり最悪だ。その旅は10時間ほどだった。体の不自由なおばあちゃんが乗ってきた、一番後部座席に座るようで、俺を見おろせる所に位置する場所だ。歩けないので運んであげたほどだった。そしてサイゴンに向かった。満席のバスはいつものように揺れに揺れ、急発車に急停車。みな気分が悪くなっているのが目に見えた。三時間ほど経った後だろうか、おばあちゃんのうめき声が聞こえてきた。やがてその吐息は、咳に変わり、詰まった音を出した。俺は心配したが言葉も通じないため何もできないし誰も何もしない。そして「うぎぇ〜」吐き出した。高速バスの窓は開かない。俺の頭の上なので少しかかった気もした。そして横にいた女の子がモライゲ、それを見た隣のおじさんも。そしてその座席の前も。そのバスはゲロのパーティーバスと化したのだった。くさいなんてものじゃない。バスは止まらない。身動きはとれない。朝方三時頃だろうかそのおばあちゃんはとうとう、わめきだした。そして悲鳴が。静けさがそこには、久々にバスのエンジン音が唸り始め、その場の静けさを逸走させた。絶対に死んだと思った。誰も何もしない。運転手は何事もなかったようにサイゴンに向けてよっこらよっこら。朝日と共にサイゴンに到着。排気ガスの充満する外の空気でさえ新鮮に感じられた。おばあちゃんもちゃんと生きていた。

とりあえず、交通量だろう。あのバイクの数はありえん。第一印象です。五人乗りを目にした。よくラオやカンボジアで目にはしていたが、ここまで交通量が多いとすさまじさを感じました。

そしてサイゴンを代表するようなプロパガンダのポスター。政府発行らしいが、仕事をがんばろうだとか、世界平和だとか、力を合わせた国作りだとかけっこうまともなことが訴えられているらしい。中には感動するくらい芸術てきなものも。




街の中心部にあるマーケットは物売りがとてもうるさかった。引っ張られるし、どなられる。歩くだけで疲れる。
ベトナム戦争博物館にも行った。とても悲しい歴史、堪え難い苦痛、人間として生きる権利、そこには戦争という現実でも非現実的な事実、人間的であって非人道的な行動がありのままに映し出されていた。

バスで、ナチャンという観光地に足を向け二日ほど過ごした。ビーチのあるその街はそこそこ。
電車を使いフエに向かった。古い街並の残るその街は雰囲気がよかった。

タイで出会った友達と街を回った。マーケットにて何かわからない昼食

参拝

そこからハノイに夜行電車で向かった。電車の中で同じ部屋になったベトナム人の人たちに飯をもらった。その中での反成長卵とでもここで言おうか、ゆで卵、はとてつもなく印象的だ。殻を割るとヒナがいる。うひゃ。もちろん試し食い。見た目はグロテスク、噛むと頭の骨が口の中で砕ける、味は苦い、血管がひゅるりと黄身の部分から、そして飲み込むとき、のどにヒナの羽が絡み付く。吐きそうになった。半分ほど食べたが、全部はとても無理だった。

ハノイは楽しかった。活気のある街の人々。しかし、今までで一番怖かった街でもあった。タクシーの運転手でさえマフィア関係の人が多いこの街。知り合いも夜のタクシーでの帰り道で誘拐され襲われていた。飯やで昼食中けんかを見た。大きなシャベルでぶんぶん。こっちに逃げてきた人の太ももにはお肉屋さんの中のような血の嵐。目の前でシャベルが振り下ろされる。店長みたいな人が止めに入り一件落着だが周りの人の反応はいまいちだった。お〜怖い。

文化博物館は歴史とアジアの建物であふれおもしろかった

水上人形劇は不思議な雰囲気を持ち観客を魅了した

ベトナム最大の見物とでも言えるだろうか、ハノイから出るハロングベイツアー。


古風で木造のその船で山々に囲まれるその湾を二泊三日クルージング、まるで海賊にでもなったようなそのツアーは日本人にも一押しだ。

船の上で一泊、島にあがりもう一晩。

物売りももちろん船の上で。

ビーチでパーティー


燐光と呼ばれる現象がここでも見られみんな夢中で泳いだ。

 続いてバスでサパと呼ばれる場所に行った。フランス人の避暑地として植民地時代栄えた街は独特な雰囲気をもっていた。

標高が高く街自体が朝晩雲の中に幻想的に埋もれる。

段々畑が広大で美しい。


その周りで暮らす人々。

子供達
 


サパには三日過ごしベトナムの旅を終え、中国に向かった。