2011年9月21日水曜日

シャンバラフェスティバル


ブリストル

やっとの思いで帰って来た家は懐かしく、静かな生活が始まり、ブログやギター、絵など描いて過ごした。ベルリン行きの航空券を購入。一ヶ月後にはイギリスを発つ事にした。シャンバラフェスティバルのチケットも購入。旅の帰りから三日後にはまた混沌が始まる。じっくり体を休める事にし、三日間は家の中でゆっくり過ごした。




シャンバラフェスティバル

初めてフェスティバルのチケットを自分で購入、ただではない、、、 約17000円ほどのチケットだ。高いと思いながらも多くの友達が参加、お勧めしたフェスティバルだったので行ってみる事にした。それと初めてフェスティバル中働かなくていいので、一日中フェスティバルを楽しむ事ができる。このフェスティバルの開催地は開催日まで秘密、全てのパフォーマーもアナウンスされておらず、いったいどんなものなのか気になった。金曜の昼頃、ラフの車に乗せてもらって、フィンと三人で向かった。迷子になりながら三時間以上かけて到達。冷たい雨が開催地で俺らを迎えた。チケット代を払っているので、かなりショックだった。雨の中荷物を運ぶ。今回はカフェタンゴがないためサイト内に車を入れる事ができない。遠い道を大きなバックにテントを持ち運んで、雨の中歩く。寒いし暗い、荷物が重いし多い。雨の中テントを張る。夕方はタンゴの仲間達に合流してテントの中で寒さをしのいだ。雨に風、夜、少しフェスティバルを歩いたが、空腹のせいもあり早めに寝にいった。

早めに寝たせいもあって、翌朝はまだ友達皆が寝てる間に起きた。一人でフェスティバルを歩き出す。この日の朝は少し青空に恵まれ、心地いい散歩日和となった。今までのフェスティバルで中くらいの大きさだろうか、一時間ほどあれば全て回れるほどの広さだが、あちこちでいろんなイベントや、珍しいハンドクラフトのお店、雰囲気のいい広場に、雑木林に隠れた通り道、潜水艦の浮かんでいる池、ウロウロしている間に時間はあっという間に過ぎていった。午後、テントに戻り皆と合流、それからフィンと歩いて回り、カレーを食べて、雑木林の中にあるステージでハープのコンサートを見た。ギターと、ハープだけのコンサートの音色は、その森林と一体して美しく、ステージは大きな木の上に建てられている家で創られていて、そこの大きな窓からの演奏となり、まさにおとぎ話の中の世界だった。夕日の暮れる頃、メインステージに向かい皆と合流し、Correspondentのコンサートを見た。エディンバラで見たときの何倍ものステージで踊っていたCorrespondentはさらにおもしろかった。その後少し間が空き、Lamb が登場する。lambのコンサートは今までの人生で立ち会った中で最高のコンサートになった。感動した。Trip-Hop の音はそこにいる全ての観客を飲み込み、揺れていた。皆で輪になり、抱き合い、目を閉じ、一つになった。体の中をLambの音が響き渡っていく、何も見えなくなるほど目を閉じた。感覚だけが音を拾っていき、足踏みの感触だけが体に伝わってくる。音楽をここまで愛する事があるだろうか?祝福に満たされた自分を見つめる事に酔って、音楽の素晴らしさに直面する。神様が実在するなら、きっとその人は音楽家だったに違いない。誰かが言ったような気がするが、まさしくその通りだと同感した一時間だった。目が覚めるように終わってしまったライブは、まさしく夢のようだった。それからシャンバラフェスティバルを着飾るように大きな木馬の建物に火が灯された。高さが、だいたい5メートルほど、長さは10メートルはあったろうか。灯された火は一気に燃え上がった。体が熱くなる。10秒もしないうちに爆発的に広がった光は何十メートルにも登り、そこにいた観衆を脅威に脅かした。遠くにいるものはもっと近くに行きたくて押し合い、近くにいるものは炎の熱により恐怖し、外に逃げようと混雑は混乱を生んだ。一番前にいた俺らも、熱さに驚き、結構慌てた。その後、皮肉にもKamikazeと呼ばれるステージでDrum & bass のコンサートは始まった。ラインアップは忘れてしまったが、好きなジャンルに体は動いていく。一日の始まりはそれからなのか、夢から覚めた後も凄まじいベース音が体を流れていく。小さなダンスステージにみんな集まった。そこに登ると、その会場全てが見え、歓喜によってDJに吸い寄せられる観客の動きが点灯するライトによって照らし出されていて、それはまるでストップモーションフィルムのようにこまごまと動き、あたかもまた夢のように現実は動いていた。光のテンポが遅くなると、ひとこまひとこまの間が大きく開き、人の動きがゆっくりと感じられ、まるでスローモーションの世界に飛ばされた気がした。朝の三時くらいになったろうか、Kamikazeは記憶にとどまる事なく終わってしまった。すると仲間がまだ隠れステージがあると言い、柵をこじ開ける。なるほど、そこには細く、長く、また道ができている。不思議の国にでも行くようにして、通りを抜けると、そこには小さな会場があり、パトカーをステージとして作り上げてあり、DJがおまわりさんの格好をして、音楽を流していた。イギリス人のユーモアだろう。つい二週間前にロンドンであった暴動をもうネタにして音楽をかけている。パフォーマンスもなかなか凝っていて、暴動者の真似をし、パトカーに体当たり。するとおまわりさんが出て来て一網打尽に暴動を暴力で解決する。身近なニュースだったので結構笑えた。空を見上げると、晴天の漆黒に星が何千と輝き煌めいている。空を見つめていると、流星が一瞬に輝く空を流れていく。空に吸い込まれると、現実の世界から遠のいて意識が離れていく。気がつくと空は明るくなりだしていて、星の数は消えていった。朝日の登りだした頃、皆でキャンプサイトに帰り、ラフの大きなテントの中で、パーティは次の日の昼まで続いていった。

最終日の日曜がやってきて昼過ぎにテントから這い出る。すでに音楽がどこからともなく聞こえて来る。となりのテントに泊まっていた人に、ガスストーブを借り、持って来ていたインスタントヌードルを温める。スープはいつでも二日酔いにいい。醤油とニンニクを分けてもらって、少しマシになったスープをすすると、少し元気になったが体は重い。テントに帰りまた一眠り。結局夕方近くまで寝てしまったのか、そこらへんの記憶はあまり残ってない。それからライブを皆でいくつか見た後、ブリストル出身のバンド、Disraeli and the small godsを見に行った。いい音を出してはいたが、あまりにも混雑し過ぎていて、踊ることもできなかった。そうして、フィナーレの花火が始まった。池を挟んで見える花火は昨日の木馬の火玉のようには熱く燃えず、豪快さにかけた。それからまたKamikazeに戻り、Drum &Bassを聞きにいったが、同じ事の繰り返しに見えたステージはケミカルに欠け、単調に過ぎた。最終日がこんな風に終わってしまったのは少しがっかりだったが、土曜があまりにも最高の組み合わせだったからかもしれない。マーキィーで行われていた映像と音楽のライブで最後のライブとなったが、疲れのせいか、その光り輝く天井の幻惑的な芸術さえも、ただの白黒映像に見えてしまい、素っ気なかった。それが終わった後、皆でテントに帰り、夜を語り合い、いつの間にか夢の中へと堕ちていった。

気がつくと昼は過ぎ、回りのもの達はテントを終い帰りだしている。今回はカフェタンゴがないので、普通の参加者と同じ時間にフェスティバルを出なければならない。俺らの仲間はまだ寝てるものもいたが、まだはしゃいでいるものもいた。元気なものだ。辺りを見回してみた。捨てられたテントや、ありとあらゆるゴミでその場はまるで別世界。すっぽりと開いた空間に取り残された空き瓶のように存在する自分に覇気を入れ、荷物をまとめだし、皆に声をかける。しゃくれた声で皆と会話し、かたずけを始めた。記憶の中には早送りに見える記憶も、その場にいたときはまるで一秒が永延のように感じられ、かたずけにどのくらい時間を費やしたのか疑問に思う。車を運転するラフの体力に感動し、安全を願いながらもぐっすり眠ってしまった。ブリストルに着くと早速パブに向かう、皆との再会、疲れきった体にもう一あおりビールを入れ、楽しかったと話をした。全く持ってイギリス人の体力には圧倒された。

次の日からまた次のフェスティバルに向け準備があり、ウェールズに向かったが風邪をこじらせ三日寝込んだ疲れが出たのだろう。フィンはしっかり休んどけと、一人準備に張り切っていた。ラフも手伝いに来て働いている中、俺はガッツリ寝込んだ三日間だった。

2011年9月18日日曜日

三度目のロンドン観光

セシルの朝九時のロンドン発、フランス行きの出発に合わせて、朝四時に起床。眠い頭にコーヒーを流し込む。ジャックに別れを告げセシルの車で、フレドリックとロンドンに出発。早朝五時にロンドンのビクトリア駅に到達。駅で地べたに寝転がり、数時間の睡眠を取りさらにマクドナルドで仮眠を。11時にフレドリックはノルウェー行きの飛行機に乗るため空港に向かい別れを告げた。俺はロンドンのハイドパークの近くにあるバッパーに向けて歩き出した。その後、シドニーで一年間一緒に暮らしたテレーザと六年ぶりに再会。懐かしい友達に会い感動した。その日はその子の所で夕食をごちそうになり、泊めてもらった。この六年間の話や、シドニーでの生活、ロンドンの生活について盛り上がった。

次の日の昼、中国で旅をしていたときに会ったアンソニーにボンドストリートで会い昼食を共にし、ロンドンの中心街を観光した。

ロンドンに来た目的は俺の母が観光に来るからだった。通訳と観光案内、それから久々の再会をかねて、自分もロンドン観光をしようとやってきたのだ。夕方七時に母から連絡がありホテルに着いたとの事。ホテルまで迎えに行き、無事再会を果たした。その日は、母をモロッコ料理に連れっていってやって(ごちそうにありついて)ワインを共にし、自分の旅路や、家庭の話で盛り上がった。

母に朝九時に電話で起こされ、騒々しい観光が始まった。まずはハイドパークを横切ってボンドストリートまで散歩をし、そこから母の目的であった、リバティーという店に入った。その店の建物は1924年に二つの軍艦を解体して創られたそうで、独特で、店内の装飾もこだわりがあり、中を歩くだけでもおもしろかった。それから昼食をパブですませ、徒歩で街を観光、SOHO通りを歩き、テムズ川に向かい、船でゆっくりとロンドンブリッジに向かった。夜はシアターに行き、ビリーエリオットというミュージカルを見に行った。いろんな人から勧められていただけあって、そのショーは感動的だった。英語のわからなかった母でさえ感動していた。メインの子役とそのサポートの子役がとてもいい役をしていておもしろかった。それから母とパブに飲みに行き、結構一緒に飲んだ。

次の日は朝早くから母がフラワーアレンジメントの習い事がありつき合わされた。電車に乗りロンドンから約三十分南に離れた田舎に向かった。広大な丘に囲まれたきれいな街にたどり着き、フラワーアレンジメントの先生に迎えに来てもらい、街を案内してもらった。もう一人日本人の女の子も講習に参加していて三人で講習を受けた。花の使い方は意外におもしろく、楽しい教習となった。先生の家はとにかく豪華で、庭も広くきれいだった。教習の後、四人でティータイム。おいしい紅茶と、ケーキでお腹はいっぱいになった。ロンドンに帰り、まだ明るい午後の街で夕食を探しに歩いて回り、母に感謝しながらイタリアンレストランでラザニアをごちそう。日が沈むと母はホテルに、俺は前ロンドンに来たときにつるんだ友達と飲みに出かけた。この日から右の手の中指が腫れだしていた。原因はわからなかったが膿みが指先に溜まり痛かったため、この夜切り開く事を決断。カミソリに消毒ガーゼ、カットバンを用意。それからヴォッカを一本。皆で騒いだ深夜、路上でオペは開始された。フランス人のジェズに頼み中指を差し出す。ジェズが主治医、スペイン人のパウラが看護婦となり、お医者さんごっこは本格的に?始められた。消毒を終え、すぱっと切られた指からはドロドロの血液が流れ出た。結構痛かった。皆が消毒の手伝ってくれた。酔った上、わめいた。血液を失った。そして路上で弾き語りを始めた。騒々しい一日はまたも慌ただしく過ぎて行き、楽しい一日は一つの思い出として残った。

早朝に母に電話で起こされ、公園で会い、中華をごちそうになった。それからは血液不足と二日酔いで、その日は観光する気になれず、俺は公園でのんびりと時間を過ごす事に。母は買い物に出かけた。数時間晴天のもと公園で昼寝をしたあと、母が買い物から帰って来てうれしそうに買ったものを披露してくれた。夕食を共に、またイタリアンをごちそうになり、感謝感謝しながら海鮮パスタを注文。ワインにオリーブと食べ、豪華な食事は食卓を着飾った。それからまた友達に会い今度は公園の中で飲む事になった。皆で閉じられた柵を乗り越える。真っ暗で静かな公園の中に俺らの笑い声だけが響き渡る。池のそばまで歩き、地べたに座り込む。そこで飲みだした。他にも人が飲んでるようで笑い声が遠くから聞こえていた。ギターを取り出し気ままにコードを奏でる。適当に歌詞をつけ皆で歌った。ひっそりした森林に囲まれた公園の端から流れるメロディーが、酔いとともに空気を盛り上げる。暗さに隠れた皆の素顔は、薄らと月明かりに照らされていて、笑い声だけがはっきりと伝わって来る。星明かりが普段より数段明るくきらめき、小さなその場だけの世界観が生まれ祝福は深夜まで続いた。

夢から覚めた後、21人部屋の小さなベットの上で、いったい何が起こったのか一瞬迷った。母からの電話がなり現実へと振り返る。チェックアウトを済ませ、公園へ出かけ二人で散歩をした。フラワーガーデンを歩きアイスクリームを食べ、ベンチでゴロゴロと。ホテルまで見送りをして母は日本へと旅立った。ボンドストリート、ロンドンブリッジ、SOHO、ビッグベン、観光船、レストラン、などなど、観光者になりきった週末だった。それからバスでブリストルに久々に帰る事にし、友達に別れを告げ、帰路へと落ち着いた。

2011年9月14日水曜日

ブライトン


エディンバラから夜行バスで約10時間半、ロンドン経由で朝の9時にブライトンに到着。久々の長旅で、眠気の残る頭と、座り通しの腰の痛みをずっしり感じる中、海際のバス停で海風とともに朝を迎えた。ブライトンはエディンバラとはまた違った雰囲気をかもちだし、観光の街として賑やかだ。それにイギリスの南海岸に位置するこの場所は、まだ温かく、久々に心地よい晴天を迎えた初日から、俺をいい気分にさせてくれた。ここにはオーストラリアでシェアをし二年間一緒に暮らしたフランス人の友達セシルに会う目的で来た。その子と友達のジャックに迎えに来てもらい。ビーチでコーヒーを一杯。ビーチと言ってもブライトンのビーチには砂がない。代わりに丸石がごろごろしている。それに温かいと言ったが、それはエディンバラと比べててあって、さすがに泳ぐ気にはなれなかった。車でジャックの家に向かう予定だったが、駐車しているという所に行くと、セシルが借りていたレンタカーがそこにはなかった。駐車禁止の場所に停めていたのだ。レッカー車に持ってかれたらしく車の後はそこにはなかった。近くにいた警察の人に事情を説明、どこに連絡を入れるのか聞き、電話、持ってかれた車の場所を聞き、まずはストレス発散のためビールをパブで。それからバスで車を取りに行き、初日の観光は終わった。セシルは140ポンドの駐車違反料金を払わされ、動揺を、俺はちょっぴり責任感を感じ辛かった。その夕方、オーストラリアで会ったノルウェー人の友達フレドリックを迎えに夕方空港に向かった。ジャックの親元の家に泊めてもらう事になり、その家族にお世話になってもらった。夜、四人でいろんな事を話し、楽しんだ。寝床は四人一部屋。文句を言える立場ではないが狭かった。フレドリックが床で、セシルとジャックと三人でベットを共有し、深夜は騒がしく過ぎていった。

明くる朝も晴天、心地よい一日は遠くから聞こえる騒がしい音楽によって始まった。エディンバラで聞いてはいたが、ブライトンはヒッピーとゲイの街。その日はブライトンの一年で最も大きなパレード、ゲイパレードが開催されていた。大通りに向かうと、そこには大行列。街中が色とりどりに飾られていて、いろんな音楽があちこちから聞こえる。何百というオカマさんやレズビアン達が派手な衣装に身を纏い、大名行列のように通りを歩き、バスからパトカーまで仮装され、パレードは数時間と続いた。その後ジャックの友達に会い一緒に公園でビールを交わした。夜はみんなでパブに向かい、一日が過ぎて行った。

次の日も晴天。ブライトンの天候は他の場所と比べてもなかなか安定していて過ごしやすい。皆、疲れが溜まっていたせいか、この日はまったく外に出る事なく、ジャックの家の庭で一日のんびりと過ごした。

晴天から始まった次の日はビーチに向かった。泳ぎに行くつもりだったが、ビールを片手に心地よかった昼時は過ぎ、曇り空が海からやって来た。風も強くなり、冷気が肌を突抜ける。セシルとジャックが車の移動と、仕事の話で街に出て行った。俺とフレドリック二人で帰りを待っていたが、風が冷たい。凍えながら待つのも厳しく、パブに入る。二時間ほど経った後、二人が帰ってき俺らに動物のコスチュームをプレゼントしてくれた。俺は猿、フレドリックはデビル、セシルとジャックは虎だった。早速、着替えると温かかった。コスチュームをきたまま街に向かうと、回りの人たちからおもしろがられ、手を振ってきたり、挨拶された。そのまま街を少し観光して、ジャックの友達の家に向かった。それからその友達に晩飯をごちそうしてもらった。鶏の丸焼き四匹に、ローストベジ、うまかった。夜中の三時くらいまで騒ぎ立てて、音楽や、ハンドクラフト、ヒッピーについて語り合った。

次の日、ジョンが俺らを訪ねに来て、またビーチへと向かった。その日も天候には恵まれず、曇り。数時間ビーチで時間を潰した後、街を観光。皆で映画ハッピーフィートを見て一日は過ぎて行った。