2012年12月8日土曜日

カナダよりヨーロッパの旅を終えて 9

ハンブルグ

マインズからハンブルグへは車シェア「mitfahrgelegenheit」を使って向かった。前にも話した事があるだろうが、ドイツの旅ではこのウェブサイトを使う方法が一番安くて住む。
とにかく、イギリスで入国拒否されたので計画がまるつぶれ、予算も減って来たのでハンブルグに住んでる友達クララの家でこれからのことが決まるまで世話になった。
観光は終わっていたが、ハンブルグでの生活は楽しかった。クララの家にはピアノがあり十年ぶりくらいにピアノを何時間も弾いた。映画見たり、公園に行ってゆっくりしたり、アニメ見たり、ギターの練習、クラブに、パティー、まるでそこに住んでいるかのように過ごした。ほとんどの時間は住まわせてもらっているクララとシェアメイトのマリのために料理をすることで過ぎていった。いろんな料理を作った。クララがベジタリアンなので、肉のない日が多々あった。ベジタリアンの料理もあまりした事が無く、豆や、イモをいかしいろんな料理をした。できあいの麺を使ってだが、そうめんやそばもやった。
そうやって二週間ハンブルグで時間を過ごした。

イギリスにもう一度だけ入国を試みようと、この間に決め、航空券をまた一度買った。それからアムステルダムとパリに行く予定を立てて旅立ちの準備は整い、また新たな旅路は始まった。

2012年11月28日水曜日

カナダよりヨーロッパの旅を終えて 8

 マインズ

ここで一言愚痴をこぼしたい。ライアン空港は安いが最悪だ。チケットを自分で印刷して来ないとプリント代が60ユーロ取られる。荷物が少しでもオーバーすると追加料金が半端ない。添乗員の愛想も悪く、酷かった。荷物のチェックインも二つ目、楽器ギターをネット上ですましていたのに、確認が取れず追加料金60ユーロを払わされた。最悪な気分でマインズへ着いた。それからマインズ行きのバス待ち二時間、ここらへんも考えて時間表を決めればいいものをと、空港でため息着いた。

とにかく、、、

マインズ

メルボルンに住んでいたときのシェアメイト、ジョーを訪ねにマインズまでやってきた。ジョーとの再会は五年ぶりほどだったが、久々の顔に何も変わりのない態度で迎えてくれた。それからとかくの川岸でバーベキューをしようと思いつき、たった二人でバーベキューセットと肉を手に外へ出た。川岸に着き、歩いていると、なんとそこにポリーナが自転車で走って来るではないか。驚いた。ポリーナも同じ家に住んでいたシェアメイトの一人だ。五年以上も連絡を取っていない。もちろんジョーも何年も連絡など取っていなかった。ほんとに偶然とはあるものだ。こっちに気図いたときのポリーナの表情と言ったらなかった。うわぁ〜っと叫びながら再会した。必然とはこういうことを言うのかもしれない。バーベキューの後、ハウスパーティーを二日後に予定し、その日は過ぎていった。

次の日はジョーが働いている間、一人マインズの街を少し歩いてみた。小雨の降る曇り空の中、街は静かだった。ドイツというイメージがぴったりの街、茶褐色の窓作り、真っ白な壁、藍色の屋根、俺から見たドイツのイメージだ。とてもきれいな街で、ストリートマーケットもあって活気があった。住みやすそうな所だった。
夜はジョーと隣近所の人と飲んだ。ドイツのビールは安くてうまい。半リットルくらいで50円ほど。有り余るビールはマグと呼ばれるドリンキングゲームで次々となくなっていった。空き缶でピラミッドを作りながら、夜は過ぎていった。

次の日はアジアンショップを探して歩いて回り、街を迷子になりながら、一日を過ごした。今夜のパーティーのメニューはタイグリーンカレー、バーベキューチキン、といろいろあったが、メインしか憶えていない。
メルボルンからの知り合い、レベッカも来てくれ、オースの話で食卓は盛り上がった。
夜が更けると、皆でクラブへと出かけた。ドイツ人はパティーが好きだ。何かあっては理由をこじつけはしゃぎだす。とても陽気な人達だと思う。六十年代のロカベリから九十年代のロックまで多様な音楽が流れるクラブだったが、いい選曲ばかりで踊り明かした。朝まで騒いで、再会を祝った。

次の日もまた、再会の集い。ポリーナが皆を呼んでくれた。今から五年以上も前に半年から一年間ほど一緒の家で過ごした友達、ジョーをはじめ、ポリーナ、クリス、ダニー、ティナ、ジュリア、とその友達が数人でジョーの家にやって来て、49ユニオンは完成した。49とは住所番号を表し、俺らはそう呼んでいた。ほんとに久々だったが、まるで昨日のように、変わらずにいてくれる友達に感動した。もう会えないだろうと、遠い人たちのように思っていたから、ほんとうに遠くまで来たのだと自覚できた瞬間でもあった。ポリーナに会えた偶然的な必然にも感動。ここまで来た甲斐があったと思えた一夜だった。

まったく計画してなかった再会だった。もっと長くいたかったが、ハンブルグへ行く予定を立てていたので皆に別れを告げ旅立ちは続いた。

2012年11月26日月曜日

カナダよりヨーロッパの旅を終えて 7

 ベネチア

ベネチアの駅に夕方遅く到着。駅から出ると運河が目の前を流れている。大きな石橋が島と島をつなぐようにたくさんかかっている。ベネチアに来る一日前までベネチアが島で成り立っているという事さえ知らなかった。感動的だった。日の暮れたベネチアは、まさにロマンスの街。照明は穏やかに紅く、水面を反射し街を映し出す。タクシーの代わりにゴンドラが駅の前にある。思わず「うぁ〜お」と声がでた。

ベネチアではロンドンで出会ったジョルジアにお世話になった。駅についてとりあえず連絡を入れると明日ベネチアに帰って来るという。ホステルととるほど余裕はない。ありがたい事にジョルジアがシェアメイトに連絡してくれて家に入れてくれると言ってくれた。しかしベネチアの街は迷路みたいでとても迷子になった。なんども道を尋ね、辿り着く。他に三人の女の子とシェアしていたが誰も英語が出来ず会話には困った。
ジョルジアはベネチアの大学に行っていて、中心街に住んでいた。家はかなり小さく、キッチンは一人でも窮屈なくらいな場所で、三人一部屋、確か家賃が月500ユーロ以上だったと思う。ベネチアの物価の高さを思い知らされた。泊めてもらう事にとても感謝。あちらこちらに友達をもつことに感謝。それと運もよかった。ちょうど大学も卒業したので次の週にはベネチアを出てポルトガルに行くのだと。ジョルジアがいてほんとに助かった。

とにかく、その晩は何もせず旅の疲れを癒した。

朝起きて買い物に行き、食料を調達。買い物が楽しかった。ハムにチーズ、ワインにパン、意外と安い食品、ハムはバカでかい肉のかたまりが店に吊るしてある。片言の英語とイタリア語でがんばった。にしても、なにからなにまで、うまい。多分サンドウィッチで始まったベネチアの生活は、毎日料理する生活ともなった。
一日目は多分、ジョルギアの帰りを待ち晩飯をごちそうしたくらいだったか。夜は二人で学生のたまり場へと酒を飲みに行った。おいしいワインを飲み歩く。広場は学生で溢れ活気があった。それでも英語を話せるものは少なく、会話には苦労したのを憶えてる。

次の日は二人でベネチアの街を歩いて回った。今までで一番感動を得た街の一つだろう。ありとあらゆる場所で感動する。カメラ片手にシャッターを切りまくる。どこを撮っても絵になるのがベネチアだ。水の都、まさにその名の通り海に浮かぶ街は車も電車も無く雰囲気がある。ゴンドラとボートが水路をつたって行き来する。全ての建物が絵になる。
雰囲気のいい橋の下で、作って来たパスタを食べる。ツナサラダパスタ、イタリア人ジョルジアもびっくり、おいしく食べてくれた。
何百枚も写真を撮っただろう、編集に時間をかけたのを憶えている。本当に感動的だった。
家に帰ってからワインで乾杯、次の日の予定をたて夜は更けていった。

次の日は二人で運河を超え、エリオットアーウィットのフォトギャラリーに行った。ベネチアにはたくさん美術館やギャラリーがあるが、ジョルジアの勧めでここを選んだ。エリオットアーウィット、彼はとても面白い写真家だ。サーカスティックな写真家で有名な人だ。いくつかの写真はどこかで見た覚えがあった。そこいらの美術館よりは面白いものが見れるだろう。二時間ほど堪能し、その一日は終わった。
その夜はジョルジアとその友達達とで飲みに出かけた。出かけたと行っても路上だ。雰囲気のいい街並を歩きながら飲んで回った。音楽がどこからともなく聞こえ、向かっていくと広場でたくさんの人たちが路上パティーをしていた。誰が持って来たかわからないラジカセにアイポッドをつなぎ音楽はかけられていた。そこに人だかりが出来てパーティー、ベネチアスタイルか?面白かった。

次の日はリドビーチに泳ぎにいった。観光都市にしては意外ときれいなビーチで、人だかりがすごかったが、少し遠くまで歩いていくと、居心地のいい堤防が並んであり、ローカル達が何人か夏の初めの海を楽しんでいた。泳ぎ疲れた後、ギターとワインで夕方まで時間を過ごし楽しんだ。
帰り道のフェリーでは夕日に感動した。ベネチアの街が真っ赤に染まった景色はまさに幻想的、この船が本当にどこに行くのか不思議に思ったくらいだ。本島の方に着いたときも感動、夕日の反射するマジカルなストリートにベネチアの美しさが現れていた。
夜は学生の集まる広場に飲みに行った。ギターを持ち出してその広場でバスキングをやった。たくさんの人たちが集まり、歌って踊った一夜だった。

最終日、リドビーチに行きゆっくり時間を過ごした後、明日の旅路に備えて、まったりした一日を過ごした。

2012年11月25日日曜日

カナダよりヨーロッパの旅を終えて 6

 フレンツェ

とてもきれいな観光地だ。だからこそホステル代が高い。歩きに歩いて探したあげくでさえ、一泊30ユーロ、それだけでその日の予算はなくなってしまう。とりあえず街をぶらぶらする。ローマよりずっと小さな街で歩いて回る事が出来き、俺的にはローマよりフレンツェの方がお気に入りだ。
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂を見たときはさすがに圧倒された。これだけにしかない独特と言っていいほどの圧倒感、今までに見た事のないと言っても過言でない色彩の異色感、かなり感動した。それでも観光客の列に並び中まで見ようとはしなかった自分に今後悔を感じる。ま、いいか。
街を歩く事数時間、迷子になりながらも感動に身を任せ足を運ぶ。特にどことなく道を抜けると川に出た。そこで見た橋、ポンテ・ヴェッキオにもまた感動した。お気に入りの映画「香水」を思い出させるその橋は、フレンツェの名所でもあり、観光客で溢れてはいたものの、とても気に入った。橋の上には造りの古い宝石店が並んでいて、中世期の商業の雰囲気をかもちだしている。まるでタイムスリップでもしたかのような気持ちになった。
それから丘に登りフレンツェの街を一望した。深い緑に囲まれる小さな街には、ゆったりとアルノ川が横切り、つい先ほどまでいたヴェッキオ橋が見下ろせた。濃いオレンジの屋根に、淡い黄色い石壁、真っ平らな街並から大聖堂のみがポッツリと浮き出ている。景色はこれとなくいいものだった。天気にも恵まれ、ストリートミュージシャンがギターを奏でる。一時間ほどゆっくり時間を過ごした。
街に戻り中華みたいなテイクアウェイで晩飯をすませ、ホステルへと戻った。夜はホステルで数人の観光客と出会い、いろんな話で盛り上がった。特にここではドクター三人に会って、その人らの話はかなり面白かった。緊急病院での話だとか、初体験の手術、プライベートな事まで少し聞いてしまい、楽しかった。

チェックアウトをすませた後、昨日会った数人でウフィツィ美術館へと朝から向かった。待ち時間、二時間ほど。大名行列のような列に並んだのはいつぶりだろうか、途切れる事のない列は、時間が経つのも忘れるくらいゆっくりとしか動かない。交代で朝飯を食べにでる。一人じゃなくて便利だと思える一つの理由だ。
イタリア最大最古の美術館を誇るウフィツィ美術館、ルネサンスの絵画で埋め尽くされ、芸術の宝庫だ。何百年前の絵画なのに保存状態はすこぶる良く、その絵の大きさ、細かいとこまでの筆使いに感動した。それでも、聖母と赤ん坊の絵を何百と見ると見飽きてしまった。とても広く、三時間くらいうろうろした気がする。
一緒に来た仲間も見失ったが、時間が無く、一人でホステルへと帰り、ベネチアへの電車へと旅路に足を向けた。

2012年11月23日金曜日

カナダよりヨーロッパの旅を終えて 5


イタリア

フェリーの中でドイツ人の旅人二人と出会った。頭についているドレッドの効果か、ドレッドを持つもの同士はよく挨拶をする習慣がある。そしてお互いの髪型を褒めたりもする。聞くことによると二人は大きなバンで、ヨーロッパをぐるぐるしているヒッピー達だった。バンの中に布団もキッチンもついていると、俺が最終的にやりたい旅のやり方だ。いろんなアドバイスをもらった気がするが、もう憶えていない。旅の話で盛り上がり、夜行フェリーの旅は退屈せず進んだ。
次の朝、その子らに近くの駅まで送ってもらい、また会えるといいねと、別れた。

アンコーナ駅でローマ行きの電車を待つ中、駅で買ったクロワッサンに感動した。ハムを挟んであったパンを食べて感動した。ツナを挟んであったパンに感動し、コーヒーを飲んをホッペの中で祝福が上がった。朝食でこれまでにない感動を憶え、イタリアに乾杯した。ドイツから南に下る旅に料理はおいしくなっていく。ハンガリーもなかなかだったが、クロアチアはさらによく、イタリアに来てこれまでにない感動と再会した。





ローマ

アンコーナから電車で数時間、ローマに辿り着いた。ローマではメルボルンで一緒にシェアハウスをしていたイタリア人のマテオと再会の予定だったが、マテオはローマに翌日に帰って来る予定なので、マテオの友達マータの所に泊めてもらうように手配してくれた。マータの仕事が終わるのが六時なのでそれまでローマを少し散歩した。ちょうどドレッドを直してくれる店も見つけたので、髪を直してもらう事にした。簡単に数時間がそうやってつぶれ、マータと駅で落ち合った。
マータとそのシェアメイト達と歓迎をしてもらい、さっそく安くておいしいワインが体に流れて行った。一本三百円くらいから始まるワインの値段。それでもおいしい。ディナーにレストランに連れて行ってもらい、パスタを食べにでた。イタリアのパスタは実にシンプルだと思った。しかしながら本当においしいパスタを食べさせてもらった日だ。
マータの家に帰り、ワインをあおって時間は過ぎていった。

次の日の夕方、マテオが迎えに来てくれて、マテオの家へと引っ越す事になった。マテオは映像関係の仕事をしている。カメラマンであり、ちょっとした映像監督でもある。マテオの仕事の様子を見せてもらった後、飯を食べにいった。連れて行ってもらった所はプレネスチーノ城と呼ばれ、もと収容所らしく、川に囲まれたお城のような場所だった。今はヒッピー達が溜まり住み、バーや小さなレストランがいくつかあり、面白い所だった。それから夜のローマをバイクで案内してもらった。
イタリア人の運転は世界最悪だ。信号無視、スピード違反くらいならともかく、マナーがなっていない。うるさいし、絶対に先を譲らない。駐車も適当、至る所に車が落ちている。マテオの運転もそんな感じで二人ノリのスクーターで100キロ、普通道路で出すものだから冷や汗が出た。今生きている事が不思議なくらいだ。
夜はマテオのアパートの下にあるバーで飲み、いろんな人に会った。が、イタリア人は全くと言っていいほど英語が話せず、会話には困った。

ともかく、次の日はそんなマテオの運転の中ローマの街を案内してもらった。コロシアムを見てバチカンを見て、サンタンジェロ城、トレビ噴水などみて観光した。いろんな所を見たが確かに観光地になるだけの理由がわかる場所だった。古代都市の遺跡、バチカン、雰囲気のいい通りに、広場、飽きる事無く一週間は過ごせるだろう。さらにイタリアン料理は最高にうまい。とにかくチーズにハムは最高だった。
夜は大学祭に連れてってもらった。大学のキャンパスを全て貸し切っての音楽祭だ。日本と比べると特に何がある訳でもなく、とにかく音楽がどこからでも流れている。ライブにDJが至る所にいる。エレクトロスウィングを見つけ、俺らは踊ったが、ビールを買うのに一時間近くかかるため、酔うこともできなかった。マテオは朝から仕事があるらしく、その日は早めに引き返した。

次の日には古代遺跡の一つに連れて行ってもらい、その公園で時間を潰し、街へと買い物にでた。出会った友達を皆集め、日本料理パーティーを開く事になった。イタリアではまだ一度もアジアンレストランを見た事はなかった。が、少なくともやはり、チャイナタウンはどこにでも存在する。あちこち回ったあげく、メニューはすき焼き、おにぎり、漬け物、枝豆、冷や奴、照り焼きチキンに決まった。これを十人前、晩餐会は二日後に決まり、その日はラーメンで過ごした。

この日はローマからバイクで二時間ほど離れた湖へと出かけた。ローマの騒々しい観光都市のノイズから休暇を取るが如く、ローカル達はここへ逃げ込むらしい。穏やかできれいな所だった。湖にはヨットがいくつか浮かんであり、家族連れや若者達がゆったり日を過ごしていた。そこでマテオの友達とも合流、泳いだりひなたぼっこして時間は過ぎていった。
そしてその後夜は皆でクラブへと足を向けた。それはまた面白い所で、クラブ内に公園のような敷地があり芝生が生えていて、ベンチなどあり皆くつろいでいた。まるでワンダーランドにでも迷ったかと思える場所も幾つもあった。

もう半年ほど前の事だからか、飲んだくれた後のことはあまり憶えていない。だが、次の日起きてすぐから晩餐会の仕込みをしていたのを憶えている。意外とおにぎりに時間をかけた事に心配を抱えたが、ツナマヨ入りや、ゴマ醤油、焼きサケ、などなど十人分は人気があった。照り焼きはもちろん、すき焼きは評判があった。漬け物も意外と食べきったが、冷や奴は味のないチーズだと半分以上残ってしまった。
とりあえず皆お腹いっぱいに満足してもらえたらしく、晩餐は無事終了した。

それから一日は特に何もする事無く、イギリス行きの飛行機待ちとしてゆっくり過ごした。




 
ブリストルにて

楽しんだローマを経て、夏をイギリスで過ごす事を計画していた。フェスティバルの楽しかった経験が忘れられず、はまってしまったのだ。友達からまた声をかけてもらったので前の月から計画していた事だ。だったのだが、、、
イギリス国境の通過は難しい。滞在理由だか、滞在期間、滞在場所、イギリスでの連絡先、イギリスを出る航空券、銀行口座、などなどたくさん聞かれた上、尋問室へと連れてかれた。そこでバックの中から全て調べられ、昨年イギリスで少しバイトをした事がバレた。失敗した。たった一言のミスでパスポートに一つペケがつき、滞在拒否。個室に8時間ほど閉じ込められ、警察官が連行しにきた。空港内で手錠までかけられて、銃を持った方々に連行。護送車に連れ込まれ、刑務所へと連れてかれた。本当に何も説明される事無く事は運んでいった。最悪な気分になった。牢屋というものは本当に冷酷な雰囲気を持っている。コンクリートの壁に鉄格子のついた窓、重たい鉄でできているドアが目の前で閉められた時、ありゃ〜と思った。スライド式のドアについている小さな小窓が開く。鋭い目つきのじいさんが紅茶はいるかと聞いてきた。ついでに晩飯も頼んだ。糞不味いカレーがでてきた。部屋にはふたのないトイレだけがあり、殺風景でコンクリの床が冷たかった。ベットもコンクリの上に薄いマットがあるだけ、寒かった。時間もわからず消灯になって、とりあえず明日のために寝た。
朝の六時くらいだったろうか、隣の部屋の囚人のドアをぶっ叩く音によって目が醒めた。「ケッチャップがほしい〜、ケッチャップがほしい〜」と、けたたましく叫び、聞いている方がおかしくなりそうだった。
それから警察官に連れられて、空港へと逆走。裏口から空港へ入る。飛行機はもう着いていた。乗客は並んで待っている。皆の前で三人の警官に護送されながら飛行機に乗り込むのはちょっとした気分だった。
とにかく、ローマに送り返される事で今回の事件は幕を開けた。





ローマ再び

とりあえずローマ中心街に帰り、頭の中を整理する。これからの予定と予算の再修正をしなければならない。本当に旅とは何が起こるかわからない。ホステルを見つけるのに三時間以上かかった。ローマは予約を取らなければホステルはほとんど満員だった。ようやく見つけたホステルで、イギリスでの愚痴をこぼしまくった。今となっては笑い話だが、あのときは結構真剣だった。とりあえず、ホステルで会った人たちと飲んだ。アイリッシュパブに行ったのを憶えている。

次の日はホステルで会った、アルゼンチン人のルチナと一緒にローマを歩いた。ローマを女の子と歩くと雰囲気はまるで別のもだ。おしゃれなレストランで昼を、雰囲気のいい通りを歩く、階段から坂道までロマンスの塊だった。橋の下でアイスクリームを食べ、手をつないで歩く。そうやって一日間ローマの休日を堪能した。
ルチナはイスラエルに次の日行く予定で、俺は予算上ホステルは一夜だけだったのでそこで短いロマンスにお別れを告げた。夕方マテオに迎えに来てもらい、マテオの家でまた世話になった。

ミュージックフェスティバルがプレネスチーノ城で開催され、ローマで知り合った皆で行った。古い石造りのトンネルの中にのグラフィティーがびっしり描かれていて、所々に訳の分からないオブジェが並んでいる。ロボットや鉄くず、バカでかい顔面などがあり、面白かった。ステージ全体が光るテレビのようで、音楽に合わせて発光していた。音楽もかなり良く、照明もいろいろと細工されていて、光り輝く渦の中で踊り明かした。
フェスティバルは二日間続いた。二日目の夜は疲れた体にケミカルが走り、音楽によって神経を奮い起こさせ、混沌と高揚に意識をゆだねた。

枯れ果てた体に水を流し込みながら、マータの家で一日休ませてもらった。皆から助言と推薦を聞いて旅の計画はなんとなくまとまった。それからもう一度皆に別れを告げて、北へ、フレンツェへと向かった。

2012年11月21日水曜日

カナダよりヨーロッパの旅を終えて 4

 クロアチア

ブダペストからクロアチアの首都ザグレブを経由して海岸沿いの街スピリットへ夜行列車を使い電車旅をやった。往復券が片道より安かったのを憶えている。
始めは色からだった。電車の中で目を覚まし朝日に照らし出される車窓の景色を眺めた時大きな感動を味わった。岩石の質の違いからだろうか、山々は真っ白にそびえ立っていた。いろんな国を回ってきているが、道路の色も土のせいか今まで見た中で一番白に近かった。
クロアチアに入ったと感じたのはそこからだった。花に木々、そしてオレンジの屋根に真っ白な壁、どれもこれもに感動した。国境を越えるという事は時に大きな違いを味せてくれる。
スピリットに着いた足でそのままフェリーでバラク島に向かった。バカでかいバックパックを背に腹に、ギターを抱えながら歩くのはとてもきつい。落ちついた雰囲気のきれいな島だったがブダペストの後の静かさがあまり面白そうではなかった。二時間ほど島を歩き回った末スピリットに帰る決断をとった。スピリットに帰った後何をするかあれこれ考えた。ザダールに行こうかとも考えた。バスの時間と運賃を見る。そんなに高くはない。ナイトバスが出ていた。これにしようか迷っているうちに、少しだけスピリットの街でも見ておこうかと思い街へと足を向けた。

スピリット

ディオクレティアヌス宮殿と呼ばれる1500年以上前ほど昔に建てられた旧市街がある。住民達はその跡地に移り住み、宮殿を取り壊す事無くとても古い石垣で生活している。アドリア海に面するビーチもあり海鮮料理もかなり盛んだった。野菜市場や花市場、観光都市ではあったが活気に満ちていておしゃれなカフェやレストランもたくさんあった。分厚く重々しい壁はその歴史を過持ち出し、秀でる文化が感じられた。言うまでもないだろうが、すぐさま宿を見つけスピリットを経験する事に決めた。

着いた宿で出会ったアルメニア人アルマンドと街を歩いた。とても小さな街で、雰囲気がよく写真を撮るのが楽しかった。観光者で溢れ、皆カメラ片手にパチパチと勢いよくシャッターを切っていた。何回も違うスポットで同じ人に会う。そうしてオーストラリア人のアマンダと知り合った。それから三人で行動して写真を撮りまくった。
その日の夜は三人でまったりと飲んで過ごした。

次の日は三人でレストランに行き、俺は大きな焼き魚を食べた。久々の魚に感動した。それからビーチに向かった。ちょっとした海岸沿いの崖を見つけそこから何度も飛び込んで遊んだ。そこで簡単なディープウォーターソロもできて結構面白かった。
それからその晩はホステルで会った奴らと街にあるクラブへと飲み歩いた。踊ったあげくに皆でビーチに向かい真夜中の海に飛び込んだのを憶えている。

次の日街を歩いていると、ブダペストでつるんでいたアメリカ人のグループと偶然はちあわせた。突然の再会に大声をあげ、夜、酒を飲みに行く事になった。またしても飲む理由ができてしまった。それから山を越え海沿いの公園を一周した。三時間ほどかかりほんとにくたくたになった。それからまたビーチに向かいとりあえず皆と昨日と同じ飛び込み崖でおちあった。グループの人数が15人以上になってみんなでギター弾いたりわいわいがやがやアドリア海を前に楽しんだ。夜はまた同じクラブへと足を向け飲んだくれた。

スプリットで三日過ごした後、二度目の皆とのお別れをしてシベニク行きのバスへと乗り込んだ。




シベニク

この街に来た目的は、近くにあるクラーク国立公園に立ち寄るためだった。次の日のクラーク公園行きのバスの時間を調べ、とりあえず街へと出てみた。シベニクもまた古風な文化を感じさせ、とても雰囲気のいい街だった。坂道が多く迷子になるのがとても楽しかった街である。それでも小さな街で地図なしでも楽しむ事ができるところだった。丘の上にある古城の跡地からの景色もまた絶景だった。天気にはあまり恵まれなかったが、クロアチア独特の白とオレンジの住宅街は印象的だ。驚いた事に日本人の観光客がたくさんいた。みんな5〜60代の奥さん方で、観光ガイド本片手に団体でガイドに連れられて、活気に満ちていた。

ホステルに帰ると、数人のバックパッカーがいて旅の話で盛り上がった。しかしながらクラーク公園に共に行く仲間は見つからず、次の日は一人で公園へと向かう事になった。

とりあえずチェックアウトをすませ、早朝からバス停へと向かう。観光名所行きにしてはとても静かなバス停だった。それでもクラーク公園に着いたときには驚いた。どこからか溢れ出したのかいろんな国籍の観光客で溢れていた。多分シベニクには一日観光で来る人たちが多いらしい。そこでも日本人の観光おばちゃん達にたくさん会い、登山家達の挨拶がてら一人旅の日本人が珍しいのか驚かれた。
森の中を緑色に光る川があちらこちらから流れ出ている。天気にも恵まれて爽やかな自然の中を歩くのは心地がいい。透き通る水面の下には魚達が戯れている。日射しが森のすき間から通り道に流れ込んで光と陰にコントラスを作り出す。しばらく自然というものに触れていなかったので新鮮な空気がおいしかった。木々の間から滝が見えた。その迫力はかなりのものがあった。金色の底から溢れるように流れ出る滝の先端は、幻想的な景色で時間を忘れるさせてくれた。滝から吹き荒れる風を感じる肌は、寒気さえ憶えさせるほど豪快だった。
が、一つだけ後悔、、、泳ぐ事ができなかった。独りだったというのと、俺が行ったときは誰も泳いでなかったから、泳ぎそびれた。
ひなたぼっこをしてバスを待つ事二時間、帰りのバスに乗り込みシベニクに戻った。
その足でザダール行きのバスに乗り込み、少し忙しい旅が続いた。





ザダール

夕日とともに辿り着き、シベニクで勧められたホステルの名前だけをもとに、バス停を歩いて回る。いろんな人に聞いて、なんとか見つかった。駅からそんなに遠くなく歩く事30分ほど。なかなか雰囲気のいいホステルだった。スパがあり、そこで何人かがバーベキューしていて仲間に加わった。その後一人で街に歩きに出て、夜をとことこ過ごした。

朝起きてチェックアウトをすませ、イタリア行きのフェリーを探した。それから昨夜会った皆と街を歩いて回り、ザダールの名所、海のオルガンの上で夕日がくるまで過ごした。海の潮の流れを利用してパイプに音を流すそのオルガンからは、不思議な音調とさざ波のハーモニーが奏でられ、クロアチアの最後の印象として紅に染まる夕日とともに心に残る。夕日とともに輝きだしたのは、光る地面。何百と埋められた照明が、いろんなパターンで光り輝きだした。丸く形とられた光のパネルは夕日と反射し虹色に輝きだす。何人もの子供達がその光の上ではしゃいでいる様子は、幻想的で美しかった。暗くなるにつれて、その陰はボンヤリとしていき、まるで人間の陰だけが実体から外れ、社会というものから浮き出てきた亡霊かのごとく、七色に光るサークルの上を踊っていた。
フェリーの時間が迫ってき、皆と別れを告げイタリアへとの新たな旅路へと歩んだ。
フェリーの入り口で出国検査があり面白かった。
フェリーの甲板から、ザダールの端にある光り輝くサークルが見え、それが小さくなるのを眺めながら自分は何を考えていたのか、今となっては全く思い出せない。


2012年11月18日日曜日

カナダよりヨーロッパの旅を終えて 3

 ブダペスト

夜中に着いた。まだ改装中のアボリジニホステルという所を見つけ、まだ開店もしていないのに遅いのだからと泊めてもらった。ホステルのオーナーに強いハンガリーのお酒を何杯も勧められ、酔わされた。晩飯も作ってもらった。それがまた印象的。鴨の脂でゆっくりと煮た鴨肉。一口めはとろける脂の味においしいかと錯覚したが、脂身百パーセントの肉食にはさすがに堪え難かった。それでも断れない。日本人の本質か、自分なのか、ピクルスと水と一緒に流し込んだ。もたれた胃と酔った頭で次の日のホステルを検索する。いつの間にか寝込んでいた。

グランディオでの生活が始まった。ブダペストには四つほどパーティーホステルがある。そのうちの一つグランディオに五日間の予約を入れた。今まで最初の一日目から五日間も予約する事がなかったが、スタッフも弾けた奴らばかりで、来た瞬間に楽しそうだと思ったからだ。思いのほかに、吉か ”狂” か、記憶なくとも思い出深い日々がそこではできた。

初日、グランディオで出会ったスペイン人のアルベルトとアメリカ人のブライアンと三人で街を歩いた。川沿いにある丘に歩いて登りブダペストの街全体を見下ろした。ブダペストは思ったよりも都会で古い街並に真新しいビルディングまでまちまちだった。プラハに色や雰囲気が少し似ていて気に入った街の一つだ。ドナウ川が街を二つに別けゆっくりと流れ、丘の上からの景色は爽やかだった。街全体はほぼ平坦でほとんどの建物は同じ高さに均一されている。たしか教会が二つくらい少し高く建てられていてそれを超える高さの建物を造ってはだめだとか、、、ような気がする。とにかく歩き回った一日だった。

二日目、天候にも恵まれ、爽快な青空の下、ブタペストの名所、屋外温泉へと向かった。途中でスイカを丸々買い三人でかじりながら街を歩いた。回りの観光客におもしろ目で見られながらも、真夏日の日射しにはスイカがともて似合っていたと思う。
温泉!温まれる湯に浸かるのは本当に何年ぶりだったろうか、日本ほど熱々の湯はなかったが、大浴場の心地よさは忘れられない。いくつもの浴槽があり、サウナにスティームルーム、水風呂、流れるプールもあって一日中飽きる事無く時間が過ぎて行った。昼には中でハンガリーソーセージとビール。まったりとした一日だった。
帰る頃には数時間とお湯の中にいたせいでかなりのぼせてしまった。風呂とは意外と体力を消耗する。だるだるになった体を引きずるようにホステルへと帰った。
そこで待っていたのは、船上パーティー。四つのホステルが共同で船を貸し切ってドナウ川をゆっくり下りながらシャンペンをあおりにあおった。楽しかったのは憶えてるが、はっきりした記憶はドナウ川の濁った水のように底を覘く事ができない。

三日目、記憶のない一日は多分ホステルで一日を過ごしたのかもしれない。二日酔いで頭を抱えていたのかもしれない。しかしながらグランディオでの生活に安息はなかった。その日の日記にはただ一言 ”Krafty Kut Show” 夜、クラブに行ったのだ。
大音響で流れるエレクトリックなサウンドは深夜のブダペストに狂喜をもたらした。暗いダンスホールに照明が一瞬にして流れ、混沌に埋もれる人間の表情が曝しだされる。一晩で我を忘れた物達が集い、心から音楽を愛する。爆音は旋律を持たずして音楽と崇められ、切り裂く機械音は律動を放ち人々を先導した。音楽とはとてもすばらしい。

四日目、似たような一日が過ぎたのか日記上には夜の出来事しか書かれていなかった。 “410 Jager Shots & open mic night”
並べられた410個のショットグラス、レッドブルにヤガマイスターを落としてのショット。一人10杯計算。人だかりのできた部屋でヤガがレッドブルに落とされていった。流れるグラスの音と回りの歓声で新たな夜が始まった。
10杯のグラスを抱え中庭にでる。旅仲間と共に乾杯の合図をとる。次から次へとショットをあおる。火照った身体から笑いが止まらない。グランディオの夜が始まった。
その日はオープンマイクナイト、ホステルの地下にあるトンネル構造のバーで皆で音楽を奏でた。楽器が弾けるという事はとてもすばらしい。マイクまで回ってきて勝手に作った言葉で歌を歌った。もう少しインプロを練習しとくべきだと、次なる機会に向けてモチベーションが上がった。

五日目、新たなる晴天に恵まれた日は、昨日打ち解けた仲間達でスイミングプールへと向かった。ドナウ川には大きな島が存在する。橋でわたって行け大きな公園がある。街から疎外されているため静かで自然にも囲まれている。中ではいろんな人たちが達がスラックラインやサッカー、ジャグリングにバトミントン、サイクリングにジョギングなどしていてとても賑やかだった。
そういえばこの日の前日にここにみんなで来てスラックラインをしたのを思い出した。
とりあえずこの日はプールに直行。泳ぎに行った。かなり大きなスイミングプールで大きなスライドや10メートルほど真っ逆さまに落ちて行くスライドなどもあり、まるで子供のようになり、いい大人達がはしゃいでは走りかなり盛り上がった。
その日の夜もオープンマイクがあって遅くまで歌を歌ったりジャムしたりした。

六日目、旅立ちの日だった。皆に別れをいい駅へと向かった。なかなか別れがたい場所だったが盛大にお別れをしてもらい涙ながらクロアチアへと向かう列車へと飛び込んだ。

カナダよりヨーロッパの旅を終えて 2

 ウィーン

ウィーンではマレーシアとタイを一緒に旅をした、ティノの家に泊めてもらった。酔い通した週末が明けたばかりだったので、特に何もする事も無く旅の話をして休みをとった。
次の日は街を一人で歩いて回った。プラハの後なので観光地でも特に感動する事無く散歩日は過ぎていった。ティノ知り合いが何人か訪ねにきてその日は旅の話でまた一日過ぎていった。三日滞在したが、ウィーンの印象はプラハに、(もしくはアルコールによって)打ち消されあまり残っていない。とりあえず旅の再会だけは楽しんだ。

2012年11月17日土曜日

カナダよりヨーロッパの旅を終えて

プラハ

今から半年ほども前の事になる。日記をつけてなければ何も思い出せないほど時間が経ってしまった。本当に遠くへ来てしまったんだと、地球の裏側にある旅の思い出を振り返り、時間の経過を肌に感じている今日だ。

とりあえず今はヨーロの話をしよう。
始まったのはプラハからだ。知り合いもいない。どんな国なのかさえ知らない。言葉も文化さえも調べる事無く、旅路を進めて行く。そんな不安と興奮を抱え旅をする自分は何者なのか、答える事のできない疑問を抱きながらも、旅路も、時間も、車窓を流れる風景のようにモーションブラーを描きながら過ぎ去って行ったのを憶えている。
それにしてもドレストンを走る列車からの景色は感動的だった。

5月8日、昼時だったろうか街に着いた。第一印象はこんな物かと大通りを迷子になりながら思った。宿探しに5時間以上歩き回ったのを憶えている。
ホステルが決まり、日も暮れてしまった。
日本人の旅人タカと同室になり、その日は一緒にプラハのビールを飲み明かし、旅について語り明かした。

翌日、タカと共に街を歩き、プラハの街に感動した。今まで見てきた街の中で指折りの美しさだった。何百年との歴史を感じさせる建物が街中を覆い、ヴァルタヴァと呼ばれる川が街の中心を流れる。それを横切るいくつもの石橋、中心街にあり金ぴかに輝く天文時計、その横に圧倒的に位置する大聖堂、大口をぽっかり開けながら街を歩いて回った。気に入ったのは特に街の雰囲気と小さな通り道。全てのレストランやカフェはとてもおしゃれで、街中のデザインの何から何までに惚れ込んだ。
プラハは独特な色も持っていて丘の上からの景色も感動的だった。ほとんどの建物の側面は白い石造りのようで、屋根は落ち着いたオレンジ色でまとめられている。
雰囲気をもたらす路面電車の騒音、道ばたに現れる異様なデザインの銅像やおきもの、レストランで見た絵画、路上で見たストリートバンド、どれをとっても最高の感動を憶えた。日本で建築を専攻するタカに先導され時計台に登ったり、有名な建築物を案内してもらい、また一つ旅の仕方を学んだ。

夜はホステルに戻り、バーでたくさんの旅人と出会った。タカとはワンピースの話で盛り上がったりも下。深夜を回るとプラハで有名なクロスクラブというクラブに行った。
鉄のガラクタでデザインされているそのクラブにもまた圧倒された。それはまるで電車や車、飛行機や戦車、あるとあらゆる鉄くずが集まり、集合体として形をなしている化け物のような漂わぬ雰囲気を過持ち出し、その場を創造しく盛り上げていた。まだ水曜だったので特に何のイベントも無くひたすら飲んで夜は過ぎていった。

次の朝は早めに起床し、翌日会ったオーストラリア人達とセドレツ納骨堂と言うところに行った。プラハから電車で一時間くらいだったか、セドレツ納骨堂は外見からは普通な教会がお墓の間に建っているだけのようだったが、中に入ってみて驚いた。そこは4万人以上の人骨が埋葬されているらしく、さらに一万人分の人骨がその礼拝堂の装飾として使われているらしく人骨の数に圧倒された。特に人骨で作られたシャンデリアにはそれにしかない不気味な印象と空気を吹き出し、冷たい感動が肌を流れた。
それから皆で近くのバーで一杯、ホステルへと足を向けた。

夜はまたもクロスクラブ。木曜なだけに光り輝く照明と鳴り響く音楽に酒は軽々しく腹に流れ込んで行った。
チェコのビールは安くてうまい。スーパーで買うと500mlが五十円くらい、クラブでも150円くらいだったろうか、簡単に手が届く。そして何よりうまい。たぶんヨーロッパで一番俺好みの味だったと思う。酔いは回りに回って、自分を見失う。クラブはとても広くステージは地下にもいくつかあり、歩き回った末、トランペットがドラム&ベースに合わせて狂うDJを発見。夜中弾け回った。

二日酔いで起きた朝は一人でプラハ観光。歩き回った末、レノンウォールを見てホステルへと帰った。その夜もクロスクラブへと足を運び酔いつぶれた。

三日酔いはさすがにこの年になるとこたえた。一日をホステルでゆっくりと過ごしその日は街へと飲みに行った。今では誰と飲みに行ったのかさえ忘れてしまった夜の事である。

頭を抱えながら起床した次の日は物の見事に予約していた、ウィーン行きのバスを乗り過ごした。仕方なく電車に走り込む。目的地はオーストリア、ウィーンだ。

プラハ行きの電車の中で

 ドレストンからプラーグへ向かっての電車の中から見える川沿いの家々に感動した。山からむき出しになっている岩がロッククライミングにとっても向いてそうでこの場所に留まりたいと少し後悔にかられた。今回の旅では時間があまりないのだ、、、あまりにも気に取られていたので写真を撮る事すら忘れていたが “Dresden” この街の名前は忘れずに後で調べたいと思う。
いやいや、、、マジきれいな景色!窓が汚い事が一つ難点で写真は撮らずじまいに電車はゆっくりと川沿いを走っていった。
ドイツからまだ国境は超えてないのだろうか疑問に思いながら、今までとはまるで別世界のような景色に感激。平坦な土地は深い緑の小さな山となり、連なっては途切れ途切れに裸となった険しい岩々をさらけ出す。その度に、登れるのではないだろうかと期待に胸が疼く。そしてそこから見えるだろう穏やかな川の流れと、色とりどりの鮮やかな一軒家の優雅な景色を想像し、落胆と期待に胸が痛くなった。
とは言ってもクライミングから身を離して早々一年近く経ったのではないだろうか。中年の老いはとても速い。今からではとても登れる気がしれなかったが、それでもなお心が疼くのだからクライミングとはとても面白いスポーツだ。

プラーグ行きの電車は個別になってあり、一部屋六人が座れるようになっている。二人のオーストラリア人と同室したが二人とも景色には興味無さげに映画を見ていた。
それにしてもこの土地には帰ってみたい。素晴らしい眺めだった。たぶん今まで見た列車の旅で一番感動的だった景色の一つだと心から感じた。
景色のせいか、出国という新たな旅路への緊張からか、眺める景色は皮肉にも僕をセンチメンタルな気持ちにさえさせた。

2012年5月30日水曜日

11日間 北欧で

さてさて、ベルリンの冬も終わり、春の兆しが街中に見られるこの頃。仕事場から12日間の休みをもらいノルウェー行きの航空券を購入。ちょっとした旅行を計画した。今はベルリンのテゲル空港、早めに到着した空港の中で一人時間を潰している。国際空港にしては意外に小さくほっとしている。ノルウェーの空港ではメルボルンでシェアをしていたトーマスが迎えに来てくれる予定で気楽な出発ではある。友人とはありがたい。
 
今回の予定は、ノルウェーの首都オスロに四日、デンマーク、コーペンハーゲンに三日、ドイツのハンベルグに四日ほどの計画ではあるが、予定通り行くかははっきりしていない。未だにオスロ行きのチケットしか持っていないのだからしかたがない。前予約だといろんなチケット代は安くなるというのに、なかなか決まらない予定に自由を感じていいのか、不安を抱いた方がいいのか、無計画な自分にあきれる。しかし今回は期限があるからで、いつもなら計画なしの旅が好きだ。




一週間はつかの間に過ぎ、今ハンベルグに向かう電車の中、真っ平らに広がる広大な草原が窓の向こうに流れて行く景色にぼんやり視線を向けながら、この8日間のスカンネジアの旅の思い出にふけった。オスロに着きトーマスの出迎えのもと街を観光し、週末を飲み明かし、バスでスウェーデンのマルモに行き、インドで出会ったリサと再会。リサの住む農家と牧場しかない田舎町で二日過ごし、慌ただしくデンマークのコーペンハーゲンで二日間の観光を楽しみ、久々の観光旅行と呼べるような、慌ただしく時間と移動に追われ、しかも巨額な旅費を費やされた一週間だった。




窓の外にデンマークの住宅街が広がる。オレンジがかった屋根に褐色の壁に囲まれた家がいくつも並び、落ち着いた雰囲気を持っている。心なしか静寂に広がるその景色は僕に淋しさに似た印象さえ残して行く。今がまだ冬だからだろうか、澄んだ空気は透き通るように景色をはっきり目に映し出し、平坦なデンマークの大地を遠くまで見渡す事ができた。時より枯れ果てている林が唐突に草原に現れ、平凡な空間に立体感を与えてくれた。




一日目、オスロで。空港まで迎えに来てくれたトーマスと再会し、この四年間と言う空白の時間を語った。
オスロの第一印象はその澄み切った空気、突き刺さるほど密度の高い酸素に襲われるような錯覚さえした。車で街に向かい、ほぼ中心街にあるトーマスの家に着いた。トーマスは一人暮らしをしていたが、かなり贅沢なアパートに住んでいて、この四年間の就労の差というのを感じた。荷物を置いてすぐ家の近くを見て回った。高原にでて街を見下ろし、ムンクのお墓を参拝、夕食を終えヴォッカを開ける。酔いが回って来たとこで街へとでていった。ほとんど会話だけで過ごした一日だったが楽しかった。

二日目、トーマスの案内のもとオスロ観光をした。“Vigelandsparken Sculpture Park” 石像公園?を回り、オスロの名所the Monolithを拝んだ。オスロにはたくさんの石像が存在するがそのほとんどが裸体像だ。街としての趣味が疑われるが芸術的で独特な雰囲気があった。それからオスロのオペラハウスを見に行き家に帰った。晩飯にリゾットを作った。




ここでいうのもなんだが気になって仕方がない。今、ハンブルグに向かう電車の中だが、隣に座っているじいさんの屁が臭い。これで何度目だろうか。10回は当に超えている。かなり臭い。鼻がもがれるような異臭が空気を埋めるたびに外に目を向ける。風力発電が盛んな北欧の草原の景色に風車がいくつも見えた。あんなにも風車は回っているのに、どうしてここの空気だけこんなにもモンワリと重たいのだろうか不思議で溜まらなかった。うわ〜また来た〜




それはさておき、二日目の晩はトーマスの友達の家に行き飲んだ。ここで数人のスウェーデン人に会って盛り上がったのだが、会話の中心はなんと日本の漫画。オタクにも劣らないギーク達。今、漫画という話題の会話は国境を越え世界中で盛り上がる。ワンピースにナルト、人気番組はもちろんのこと、次々と話題がでてくる。デスノートは誰もが疑わないフェイバリットで、アキラや鉄腕アトムなど古いものにも皆熱くなった。大人達は言った、漫画ばかり見ているとバカになる。今漫画は日本の文化となり、日本のアートとして世界で認められていると僕は言いたい。




ハンブルグへの途中の電車、電車ごとフェリーに乗り込んだ。まったく予想もしてなかったので結構驚いた。フェリーの中で電車を降りフェリーの中に入ったのだがこれまた豪華客船。レストランに土産屋、そして面白い事に免税店。慌てて北欧人達が免税の酒へと列を並べる様子は北欧の物価の高さを物語っていた。フェリーの鋼板にでるとそこには澄み切った青空が広がっていた。空がこんなにも青々しく広がった世界は此処と無く現実味に欠け、体が凍り付くほど寒くなるまで、冷たい海風を感じる事を忘れていた。




ドイツに入ったなと感じたのは色からだった。
青い屋根に茶色と白の外装、姿形はほとんど一緒なのにメインとなる色がはっきりと変わった。草原はより濃く緑に染まり、青々とした平原が目立った。
もう一つの感動は風車。一度、数十も並ぶ風車達の、かなり近くを電車が通り過ぎたのだが、その大きさと、緑輝く広大な農場でゆったりと回る機械仕掛けの塔に不思議な感覚を感じた。まるで巨大なロボットが世界を動かしているかのような、本当に世界は生きていると風が教えてくれるような、そんな感覚だった。
月が見えた。真東の地平線状に薄らと浮かび上がっていた月は何も語らずひっそりとしていた。




とにかく今はオスロの話をしよう。三日目の朝はとにかく二日酔い。ゆっくりと目を覚ましその日の計画を立てた。朝食後ムンクの美術館に行った。叫びを描いた有名な画家だ。オスロでほぼ生涯を暮らしたそうだが、いろんな国でも絵を描いている。異色な絵を描く人だが認められるまでに何十年と評論家から批判を受け、何千と絵を描いたらしい。ムンクも荒れた人生を過ごし、波瀾万丈に生きていたらしい。芸術家とはそうなのだろうか。




三日目の夜はトーマスの友人に夕食に招待されスウェーデン料をごちそうしてもらった。大きな肉団子と蒸したポテトと人参をクリームソースとベリージャムと一緒に食べる。肉を甘いものと食べる事はあまり知らなかったのでちょっと驚いたがかなりいけた。ドイツから持って来たヤガマイスターを二人で一ビン開け、ノルウェーについて話したり、昔の友達の事や旅、ノルウェーでの生活について話した。それからトーマスと二人で夜の街へとでかけた。紙切れのように貨幣が飛ぶ。数杯のビールが聖水のように流れる。ノルウェーの夜は豪華にも万単位の貨幣が便所へと流れて行った。

三日酔いで目覚めた日曜の朝はゆっくりとトーマスの家でくつろがせてもらった。トーマスは親元の家に出かけたので一人でアニメを見たりして時間を潰した。
その日、夜行バスでスウェーデンのマルモという田舎町へ向かった。トーマスにバス停まで送ってもらい、夏にフランスで会おうと約束をしオスロを後にした。




今はハンブルグからベルリンの電車の中。73ユーロ、たった一時間半の移動にこんな額を払ったのは初めてだ。見くびっていた。ドイツには他人の車に乗せてもらって移動するという独特な交通手段もあったのにそれを使わなかった事を今になって後悔している。





マルモ。スウェーデンの南に位置する小さな街。とても穏やかで、静かな場所だった。朝の六時に到着。古風な街並に差し込む朝の日射しは澄み切っていて、幻想的ですがすがしかった。駅のカフェで少し時間を潰し、少し温かくなってきた九時前ごろ街を歩きに出てみた。大きな公園を見つけたのでそこらをぶらぶら。オープンテラスを見つけたので一休みついでにギターを取り出し、独り、朝の霖とした空気の中で小さな音色を奏でてみた。三十分もすると手がかじかんできそそくさと街へと戻った。
マルモにはインドで共に旅をしたスウェーデン人のリサと再会。朝食後リサは学校に行き俺は独りで街を歩いた。とても穏やかできれいな街だった。二時間も歩くと街のほとんどを歩き終わってしまったほど小さな街だった。それからリサと合流、リサの家に連れてってもらった。
リサはマルモからさらに電車で三十分くらいはなれたHässleholmいう田舎に住んでいた。回りには森林と牧場。無限に広がる広大な大地にリサは住んでいた。お隣さんが一軒、半径一キロあたりに50人は住んでいるのだろうかと、本当に小さな村だった。
リサの家に二日間泊めてもらい、その家族に食事まで面倒してもらった。感謝感謝。二日目は家の回りの森林をぐるりと回り馬など見て回った。今になって乗馬しとけばよかったなと後悔、、、 そしてその日、リサの兄に子供が生まれた。そんなめでたい日に立ち会い申し訳ないと、お祝いの夕食をほうばりながらお祝いの言葉を告げた。リサと旅の話など一晩中盛り上がり、慌ただしく過ぎた日は早朝の寒風に頬をたたかれ、デンマークに行く電車へと身を乗せた。




所変わって今はベルリンからハンブルグに向かう車の中。時速160キロでドイツの高速を駆け抜ける。ドイツの高速には制限速度はないと運転中のフィルは笑っていた。
スカンジナビアから一ヶ月、車窓から見える景色は時に見渡す限り広がる緑の広原、黄色の絨毯のように無限に輝く菜の花畑、春の訪れを生き生きしく伝えてくれた。ついでにドイツの国の広さも。日本の国道ではまず考えられない平地の広さだった。




そこはさておき、今回の車は友達でもヒッチハイクでもない。Mitfahrzentrale | mitfahrgelegenheit.deというウェブサイトがドイツにはあり、個人的に目的地に行く車を探して連れっててもらうのだ。電車だと73ユーロの片道切符、今回の車の運賃は15ユーロ。なかなかお得な手段である。その仕組みはというと、フィルは今回仕事でベルリンからハンブルグに車で行かなければならなかった。車には三席の空きがあり、それにともないウェブサイトに広告を載せる。日付、時刻、値段。そして他人を募集し車に同伴させ運賃を取る。ガソリン代の高いドイツでは独りで行くとコストな旅費もこうやってまかなってもらうという仕組みだ。俺はその広告を見つけ電話で連絡をいれる。口約束だけで交わされた即決な契約は守られ、指定の場所に約束した時間に到着、初めて会い、挨拶をし車に乗せてもらった。ドイツで一番安くて簡単な旅の方法だと思う。ただ全く個人的な契約なので保証はされていない。それでもそれの悪い話はまだ聞いた事はない。今回俺はかなりラッキーな方だとは聞かされたけど。




順を追って行くと今はコーペンハーゲンの話をするべきなのであろうか。あれから一ヶ月半が過ぎている。簡素な日記と写真を見ながら何をやっていたかを思い出す。全く持って怠けている。今日からまた新しい旅が始まる言うのにやる事が山積みだ。




とにかく久々のバックパッキングだ。コーペンハーゲンには知り合いはいなかったので、ホステルを探さなければなかった。いつも通り、その土地の情報やガイドブックはなし。駅から出てとりあえずきょろきょろと辺りを見渡す。先進国、たいていの駅には観光者用に情報誌やインフォメーションセンターがある。とりあえずそれを探す事から始まった。今まで見つけたインフォの中で一番頼りになった。地図からホステル、全ての情報と人のいいスタッフ。すぐさま泊まれそうな場所を見つけ大通りへと足を向けた。
ホステルの値段、、、 さすがにスカンジナビア、予想通り破格だ。八人部屋で一泊185クロン、25ユーロ近くした。それ以外に安いのも見つけきれず、一泊だけの予定なのでとりあえずチェックイン。街へと歩いた。

コーペンハーゲン、今回のスカンジナビアで見た中で一番感動を得た。そびえ立つ古びた建物の数々、歴史と文化を感じさせてくれる。街の中心部には車は通らず、雰囲気のいい通路はたくさんの人で賑わい、久々に興奮さえ憶えた。おしゃれでユニークな店の並ぶ通り、広場に現れる花屋、賑やかに音を奏でるストリートミュージシャン、そして振り返りたくなるほどに香るパンケーキの香ばしい匂い。歩いてみてとても清々しい旅路だった。

それからコーペンハーゲンの見所とでも言うべきか、日本では知られざるもヨーロッパでは有名な観光地クリスタニアに足を踏み入れた。
治外法権?とでも言うべきか、コーペンハーゲンの街中にぽつりと現れるこの小さなエリアでは認められざる暗黙の国が存在する。
入り口には看板があり、そこにはその国の法律が示されていた。一つ、この国を楽しむ事。二つ、住民が慌てるので走るな。三つ、写真禁止。
クリスタニアでは独自の貨幣を所有し公明にマリファナが売買されていて、その他にもキノコやなにやら。ヒッピーな文化を取り入れたアートや工場が存在し面白いところだった。湖に囲まれていてとても静かで自然ある心地の良い場所でもあり、多くの人が水辺でのんびりしていた。
印象に深く残ったのはメイン通りから外れた住民の家。独特なデザインに古風な彩り、まるで不思議の国にでも迷ってしまったかのような気持ちになる。大木の上に見晴し台があり登ってみた。湖が見渡せて心地よく、緑溢れる木々の間から小さな屋根が彩るように顔を出していて、一休みには最高の場所となった。
そこでドイツ人のカースティンとその友達に出会い、クリスタニアを案内してもらった。クリスタニアの奥深くまで案内してもらいたくさんの面白い家々を見て回った。なんでもそのエリアは戦時中、戦艦の船着き場、軍の要塞地として開拓されたそうだが使う事無く放棄され、ありとあらゆる人々が住み着いたそうだ。そして国柄なのか強制立ち退きなどもとくに起こることなく今のクリスタニアが存在するのだと。それからカースティンとコーペンハーゲンの夜の街に飲みに出た。コーペンハーゲンのバーを何件も回り、酔っぱらいと意気投合し、街をふらふら、夜は更けて行った。面白い一日だった。

次の日は数時間を公園で過ごしハンブルグへの電車へと身を投げた。





ハンブルグ

コーペンハーゲンで感動的な街並を見た後だったので、少し印象に欠ける。とにかくもう一ヶ月経ってしまっている事に問題があるのかもしれない。
ハンブルグに来た目的は大昔のシェアメイト、メルボルンで最初に一年間過ごした友達ミリーに再会するためだった。懐かしの再会に感動し、よく飲んだ三日間だった。

二日目に少しばかり街を一人で歩いて回った。日本人が桜の花見をしていた。潜水艦を発見、中を見て回った。観光者はとても多く、街は騒がしかった。
ミリーとそのシェアメイトのクララ、とマリーを招いて夕食を振る舞ってあげた。白魚のソテーに茄子のトマト和え、それを重ねてトマトを間に、オーブンで表面をカッラとさせ
クリームと白ワインのソースをたらしてガーリックライスとサラダで夕飯は盛り上がった。料理とは楽しい。それからギターを弾いて、歌って飲んで、一日は過ぎて行った。
ドックスというクラブにも行ってみたが人がいっぱいで大変だった。
ハンブルグでは特に何をするでも無く会話と料理で盛り上がった。
そうやって11日間という北欧でのホリデーは過ぎて行きベルリンへの帰路へと着いた。



ベルリンに帰宅。ホリデーは終わり、また元の生活に戻り、バイトと飲みに明け暮れ、ベルリンを出るまでの二週間を過ごした。

2012年5月14日月曜日

ベルリンでの生活

 マイナス20度の経験とチャリで通う仕事。
初めてマイナス二十度以下を経験した。寒いなんてものではなかった。痛かった。頬に痛みを感じることも感覚を失い手袋をしていた手でさえもかじかんできた。足の指先は凍りついたように痛みを伴い、太ももでは履いていたジーンズの布の感覚が鮫肌のように肌を擦っていた。
そんな中、一着6パウンド、役千円の安物ジーンズと、上着三つ、シャツにパーカーにジャッケトのみだったので仕事仲間からも驚かれた。それでも極寒の中、風邪という風邪はひかず元気に毎日チャリで通勤した。

街に流れる川の凍結と、その氷上を歩く体験。
今年のベルリンの冬はかなり短かったと聞く。それでも二週間ほどだったが家の近くの川が完全に凍結した。雪もそこそこ降って一週間ほど真っ白な雪景色へと街は染まった。帰り道の夜中、橋の上から川をのぞくと、当ても無く続く一つの足跡が川の真ん中を終わり無く続いていた。
次の日の朝、家の窓ガラスまで凍りつくほどの氷点下。それから決心。歩いて仕事に行く事にした。正解!川は完全に凍りつきたくさんの人が通行、賑わっていた。何人かはアイススケートで川を走る。数キロクラスのスケートコースだ。アイスホッケーをして遊んでいる若者。ソリまで持ち出して遊んでいる子供達。冷えきっていた街の暗い雰囲気に一気に笑顔が溢れていた。
自分の家から仕事場までのほとんどが川沿いだったので、凍った川の上を通勤路として滑りながら一時間以上欠けて仕事場に向かった。凍った川の上を歩いたのも初体験。スケートシューズを持ってなかった事を後悔した。

週末のパーティー、クラブ通い。
ベルリンではパーティーを探す事に苦労はしないだろう。いつでもどこでも。特に春先から夏の終わりにかけてまでは、オープンエアーパティーと呼ばれる集まりは面白かった。

ベルリンを訪ねに来た友人達と、ベルリン観光
JP, ことジョンポールがベルリンを訪ねてきた。初めてのベルリン観光。三ヶ月以上も住んでいたのにベルリンの事を何も知らなかった。ベルリンの壁を共に見に行き、ユダヤ人のお墓を参拝。ヒットラー演説の大きな門を見て、チェックポイントをまたいだ。そうやって一日は観光で過ぎて行き、飲んで話して、過ぎて行った。それからヤナとノラと合流し一晩中飲み明かした。
ジョンはシェフでもあったので共に料理をして、調理について熱く語った。
四日間くらいだったろうか、時間は一週間前の二日酔いのように消えて行って、ジョンはプラーグへと向かった。


ストリートアートと絵の練習
ベルリンには所々にストリートアートが描かれている。見渡す限りタグがされていたり、ビル一つ分の巨大な絵が描かれていたり、大きさも種類もいろいろあって楽しい。見飽きる事のない素晴らしいものから、雰囲気を台無しにしてしまう落書きまでそれぞれだが、ストリートアートだけを目的でベルリンを歩いてもとても面白く、終わる事を知らない。ベルリンに来た目的のひとつは絵を描きたかったからだ。その終わる事を知らないストリートアートは僕にもっと絵を描かせるやる気へとつながった。ベルリンに来てよかったと思える一番の理由だ。

グッドナイトサーカス
ドイツの音楽のセンスには少しがっかりさせられていた。どこに行ってもテクノが流れている。イギリスでフェスティバルの経験をした後だったので余計に比較してしまって文句ばかり出ていたところだった。
そこでベルリンをでる最終日、そんな偏見を変える目的も含めて、お別れ会として友達をグットナイトサーカスのコンサートへと誘った。ベルリンのバンドでシャーレストン音楽を奏でるバンドだ。会場は名前はわからないが、まるで小さなお城のように暗闇にそびえ立ち、重い扉を開くと大理石でできたホールが広がり、場違いな場所にでも来たように少し気後れと興奮が胸に湧く。中にはまるで映画の中のような小さなダンスホール。心が躍った。
ビールを片手にライブを待つ。みんながこんなとこでいいのかと心配していたが、三十分くらい静かな音楽の中で待った後グットナイトサーカスは堂々とステージに経ちお気に入りの曲Moonlightからコンサートは始まった。一分と経たないうちに会場はたくさんの人が手を取り合い踊りだした。その旋律はアップテンポでじっとしていられなくなる。足が勝手にステップを踏み、ただただ笑顔になってしまう。そんな幸せを運んでくれる音楽がそこには溢れていた。友達もみんな気に入ってくれて、気づけばステージの一番前で踊っていた。ほんとに楽しい夜だった。別れの淋しさも忘れさしてくれる音楽で、一日は過ぎて行き、朝日の出るまで友人と語り合ってベルリンの生活は幕を閉じた。


御託
ヨーロッパのほとんどの学生は国から学費を借りて学校へ行く。卒業してから働いて金を国へと返すのが一般的らしい。国民に技術を身につけさせるのは国の役目と。日本もそうなってほしいものだ