2011年10月30日日曜日

仕事探し

これまたお世話になりました。
とりあえずドイツ語が話せないので日本食レストランを回った。自転車で街をぐるぐる、意外にも数ある寿司屋さん、ほとんどがベトナム系の人が経営してます。ドイツ語が話せないとあんまり相手にされませんでした。一つ一つ寿司屋に入り聞き回る事半日、コイッツバーグにある一つの寿司屋にバイトを探していないかと聞くと、そこにはなかったが、その店の人、ケンさんと話をしていると、ケンさんが知り合いの寿司屋に電話してくれるとの事。ケンさんが次から次へと電話をかけ回す。その日は見つからなかったけど次の日、ケンさんから連絡が入り一つ見つけたと連絡があった。とても親切な人である。街からはかなり離れた場所だったが、トライアルをくれ先週三時間ほど働いた。働かしてもらいそうだ。月曜と水曜に仕事が入る事になった。

そしてもう一つ。
メルボルンに住んでいたときにシェアをしていた友達、ミリーがベルリンに遊びに来た。一緒に飲みに行き、久々の再会に乾杯。今までの旅路、共に住んでいたときの話で盛り上がった後、仕事を探していると言うと、もしかしたらと連絡先をくれた。その後その連絡先トニーに電話をすると、仕事内容を説明され、いつでも始めていいよと。二つ目が決まった。路上に立ち、通り行く人に声をかけ、体の不自由な人に募金を募る人を探し連絡先をもらうこと。それが仕事だ。まだ始めてはいないが、冬に向けて路上の仕事とは少し身が引ける。んま、与えられたチャンスなのでがんばってみることにした。

という風に運良く二つ仕事が入り、生きる事には問題なくベルリンの生活を始められそうだ。人との出会いとはありがたいものだ。

2011年10月28日金曜日

ドイツ入国!!!


十月二十八日、今現在。

ドイツに来てかれこれ一ヶ月近くが経った。
今はベルリンの街の中心から自転車で30分くらい離れたノイコーン(Neucolln)という所のアパート、キッチンとトイレシャワーを共有でドイツ人二人、とイタリア人と四人で生活をしている。光熱費込み、インターネットも合わせて月185ユーロ、ベルリンにしては安い方らしい。
久々の自分の部屋。筆立てに戸棚、クローゼットに机、毛布を購入、部屋用のスリッパに歯ブラシ用のカップ。一年半の移動ばかりの生活から解放されバックパックから荷物を全て取り出し、部屋をつくる一般的な事が懐かしく楽しかった。
観光はまだしていないし、部屋から出る事もまだすくない。とりあえず何もしなくていいという安泰感を味わう事に専念し、一ヶ月近くも経ってしまった。
毎日ギターを弾いたり、絵を描いたり、アニメ見たり、ブログ書いたり、半年もほったらかしにしていた旅のビデオにも手を付け出したり、忙しくはあるが生活が一日中部屋の中で暇をも感じたりした。んま、こんな生活が必要だと感じてたから、自分整頓といったところだろうか。それに今はとにかく寒くなってきているし動きたくないのも事実だ。
ドイツ語はまだ全くといっていいほど話す事はできない。若いものはだいたい英語で通じるが、街から離れたり(俺が住んでる所も)、ドイツ人以外の人(トルコ人やアラブ系が多い)、それから三十代後半の人は英語が通じず会話には苦労する。
とりあえず仕事は二つ見つけた。ビザはまだワーホリには変えきれてない。住所登録待ちだ。ドイツ語勉強に手をつけようと、まだやる気が起こってるわけでもない。今までが今までで奇跡的で、中途半端な気持ちになって来ているのは確かだ。とにかくここに書く事で自分に言い聞かせる事ができるかもと、活を入れ直す気持ちだ。

んま何もしてないと言う訳じゃないが、、、

とりあえず、ベルリン到着から書くとします。



到着、家探し

10月3日月曜日、ベルリンのSchönefeld国際空港に朝八時に到着、事前にインドで会ったセブーに連絡していたので迎えに来てもらった。彼もベルリンに引っ越して来て一週間しかったっておらず偶然の再会に感動した。フェイスブックのおかげで連絡が取れたのだ。最近のインターネットはとても便利になったものだ。
とりあえず少しベルリンを回ってから朝食を共にし、そいつの家に泊めてもらう事になった。次の日から仕事が始まるらしく、忙しい中お世話になり感謝した。夜は一緒に飲みに行きアレーシアで旅を一ヶ月共にしたアンジーにも再会。後日、その子に今住んでいるアパートを紹介してもらうが、持つべきものは友達だと本当に感謝。二日間セブーの家で世話になり次は中国で会ったイスラエル人のバーの世話になることになった。セブーの家は街から遠かったし、仕事が忙しそうだったから早めに出ることにしたのだ。
バーの家は街の中心街にあり、いろいろと世話になり飲みに行ったりもした。親戚が来るというのでそこにも長居は出来ず三日後に、今度はマレーシアで会ったことのある友達バフ、の家(Neucolln) で世話になった。バフの家はかなり大きく、ガレージにワークショップがあり地下も広くあり楽しそうな家だった。芸術家の集まる家らしく、今後が楽しそうだ。そこにも三日間、それからアンジーから連絡があり、今の家が見つかった。かれこれ一週間、特に自分から何をするでもなく、いろんな人に世話になった。感謝感謝。



ベルリン

ベルリンはドイツの首都であり(着いて知りました)、北東に位置し、ポーランドやデンマークの国境に近い。冬は雪がかなりつもるらしく、地面も凍りつくらしい。第二次大戦でひどく被害をうけたらしく街は再興のおかげでかなり構成され、外見は単調で、個人的にはイギリスを見た後だったので少し面白みに欠けた。ベルリンの壁の崩壊後、首都になりここ十年で急成長したしたらしく本当に真新しい街だ。
とりあえずベルリンに住む気になったのはベルリンが芸術と音楽の街として知られ、学生の街と呼ばれ、楽しいと聞いたからだ。聞いた通り。カフェに入り人と話すと、画家だとか音楽家だとか、写真家、役者だとかデザイナーだとかばかりに出会い話が盛り上がる。歩く街のそこら中にストリートアートが描かれており影響させられる。
トルコ人が多く主にケバブを削っている。イタリア人にイスラエル人、多国籍なところだ。
比べると少なくはあるけど、意外にも日本人の人口もあり驚いた。
とりあえず一ヶ月経った今の感想だ。



ビザ、、、

本心はパリに行きたかったが、ドイツでしかワーホリは採れず苦しくもの選択と言えないこともないのは事実。ドイツでは観光で入ってからドイツ内でワーホリビザが採れる事になっている。(2011年11月現在)俺はまだ採れてはいない。
とにかく日本で取得できるなら日本国内で取得する事をここではお勧めする。
もしくはドイツ国外のドイツ大使館でが一番お勧め。
俺は先月までイギリスに四ヶ月、インドに三ヶ月いたので、ドイツ国内で申し込む事になった。イギリスでやっておけばよかったと後悔、、、

困難ではないと思うがとにかく面倒臭い、、、

まずは外人局に行かなければならないのだが、予約は不可能。
電話には絶対出る事はない、と思う。出てもドイツ語対応。

一度目の外人局訪問。
相手にされなかった。次の朝の六時に来いと説明も受けず門前払い。外人局なのに英語も全く通じる事はない。アメリカ人やオーストラリア人も同じような状況で待ち合い室で困惑していた。

日本大使館に行って説明してもらうと、ドイツの外人局はそんなもんだよと、先が思いやられた。

二度目の外人局訪問。
電車で乗り換え三つ、一時間かかる。朝四時半起きで向かった外人局には、なるほどもう列が出来ていた。整理券を取る事ができ、待合室に座った。誰も何が起こっているのか説明できるものはいなかった。それでも五時間後、自分の番号が呼ばれ対応される事に。限られた英語の中で必要事項を言い渡され、もう一度来なさいと言われた。



取得に必要なものは、パスポート、申請書、現金30万円以上持っているという証明書、滞在期間中有効で、歯の治療にも対応した保険に入っている事の証明書、そして住所登録書。

申請書は日本のものは使えなかった。既に出国しているのでエラーになるんです。外人局のサイトでは全部ドイツ語なので探すのも困難。友達に頼んだがそれでも難しかった。結局外人局でもらいました。顔写真を自分で貼付けてください。自分で撮影でしたほうが遥かに安い。サイズに注意してデジカメでやってオケー。

現金所持証明書は、銀行の残金さえ書いてあるものならネットバンクの残高を印刷したものでオケー。

そして保険。日本の海外保険では高額なので、ドイツのものを取得したが、これにも時間がかかった。言葉が通じない事にこれほど苦労した事はない。それでも一年間分で550ユーロ。六万円近く、、、

そして今、待っているのが住所登録。
ドイツでは法律で自分の住所を登録しなければならない住民登録が義務づけられている。たぶん日本でも同じような事があるだろう。これが今までワーホリビザが採れていない理由だ。家の大家さんと住み込みの契約。家主から俺が住んでいる事の証明書。その二つを持って警察署に行き住民登録書を発行してもらうのだ。

それでワーホリビザが取れる。らしい、、、
それでも検査委員の個人的な判断に任されるらしく、いいかげんだ。

とこんな感じです。


とにかく今は暗くなってもしょうがないので前向きに一日を過ごしてます。

2011年10月20日木曜日

イギリスに別れを、、、


ブリストル

元気になってからも、とくに大きな変化はなかった。ブログにギターの練習、アニメを見たり、友達とバーベキューをしたりした。夏は終わりに近づき、天候も悪化する一方。寒さが増したので買い物にも出かけた。ジーンズを購入、着用していたら皆に驚かれた。新しい靴を買ったときも笑われた。ヒッピーな生活はそれにて終了。ウェールズの、とある田舎で二日間のFood festivalもなんなくこなし、ハウスパーティにもいくつか参加。マッシュルームなんかも時にはでてきたり、ゴルフにいったりもした。そして二週間が過ぎた。




ロンドン

旅立ちまで五日間。最後の週末はロンドンで過ごす事にした。今回はテレツコのお世話になってもらう事に。ここではメルボルンで一緒に住んでたイタリア人のマテオとも再会。久々に会う顔に、笑顔がでる。二人でテレツコの家に泊めてもらい、毎晩夕食を共にした。十月の頭、ロンドンでは奇跡的にも晴天に恵まれ、週末は最高気温も27度を上回る季節外れな心地よい日が続いた。一晩テレツコのシェアメイトとインプロでジャムをした。寿司をつくった。できはそこそこ、、、土曜の昼、マテオとCamden town を歩いて回った。その街は個性に満ちあふれ活気があり、買い物をするならおもしろそうだった。
そして夜はフィンとラフ、ジョーがロンドンにきてハウスパーティに行くらしく、連れてってもらった。ロンドンにしては大きなハウスパーティだった。朝まで音楽は続いたが、近所からの苦情もなく楽しく時間は過ぎ皆との別れを惜しんだ。マディーと一緒に裏庭に布団を敷いて朝日を草原で迎えた。楽しかったが、少し寂しかった一日でもある。
昼は皆でピザを食べに行き、それから別れを告げた。休む間もなく荷物を取りに戻る。テレツコとマテオにも別れを告げ、ドイツに向けて新たな旅は始まった。

2011年10月14日金曜日

夏の終わりに ベスティバル

明くる朝、簡単にラフの家族に挨拶をし、早々にフィンの家へと向かった。最後の荷物をまとめ、バンに積み込む。車の中は、はち切れんばかりにいっぱいになり、ドアを閉める事も困難だった。一晩ウェールズで過ごして、ブリストルへ昼頃でかけた。ベンとルーシーも仲間にくわり、彼らの荷物をさらに押し込む。夕食をフィッシュ アンド チップスで軽くすませ、夕方頃、ベスティバル開催地、南イギリスの島、Isle of Wight へと向かった。かれこれ四時間、フェリーの発着地に着いた。フェリーの出発まで一時間、仮眠をバンの中でとり時間を潰し、フェリーに乗り込む。島に到着はしたものの、24時間営業のTesco を探し、道に迷う。一時間以上、迷子になったあと、買い物をすませ、ベスティバルの駐車場に向かった。駐車場に着いたのは朝の四時頃だったろうか、朝の八時にはキャンプサイトに行く事になっていたのでテントも張らず、車の中でまた仮眠を。そして気づくと外は嵐。車が揺れに揺れて目が覚めたのだ。ちょうどこの日、アメリカで被害の出ているハリケーン、アイリーンの勢力がイギリスにまで届いたのだ。冷たく鋭い雨に、響き渡る豪風。その日、ベスティバルへの入場は禁じられた。また車の中で一日を過ごす。リンゴとポテトチップスでは腹は膨らまない。街に出て鶏肉と食パン、サラダを購入。サンドウィッチとバターで一日をやり越し、また車の中でじっと一日を過ごした。

嵐の過ぎ去った次の朝は晴天に恵まれ、少し海風の残る中、一日の遅れを取り戻すため慌ただしくカフェタンゴの建築へと勢を入れた。車から降りると、今まで座り続けて来た体はまるで鋼のようにカチコチに固まり、深呼吸が懐かしかった。皆、イロイロと仕事をしている中、俺はギターを弾き、歌を歌い、皆に音楽を提供した。一日遅れの作業だったがなんとかキッチンは出来上がり、後からやって来たものも含め夕食は作る事ができた。その日は俺とジョーとジョンは雑魚寝して寝て、また次の日朝早くから仕事に勢をだした。

初日、売り上げはそこそこ、今回はピザの他ジュースバーまでも出しているカフェタンゴ。メンバーもかなりの人数がいて外を回る時間ができ、フェスティバル自体を堪能する事もできた。約六万人ほどの参加者がいたらしいがこれもまた大きかった。キャンプサイトの端から端までは目は届かず、数えきれないほどのステージ。なんといってもベスティバルのラインアップはただ事ではなかった。
初日夜は、待ちに待ったSantigoldを見に行った。大きなステージだったので遠くからでしか見る事ができなかったが、その偉大さに圧巻された。何千人という観客が押し寄せてすき間なくステージを見上げている。Santigold の力強い音楽は真っ青なマーキーの中でネオンに輝き、反響によって響き渡っていた。荒れ狂う人だかりの中、皆ともはぐれ、記憶ももがれ、一日は過ぎて逝った。

二日目、開催地に着いて四日が経過しているが、朝起きて持参したインスタントヌードルを作りにカフェタンゴに向かう。その忙しさには驚いた。朝食がこんなに忙しかったのは初めてだ。腹を満たした所で仕事に取りかかりだした。ピザの方は結構準備はできていて、焦る必要はなかったが、朝に比べると客入りが少なく、呆気なかった。暇が開いたので休憩を取りシャワーを浴びにいった。
かれこれ一週間ぶりだろうか、溢れ出る体臭には嫌気がさしていたから祝福の瞬間だった。シャワールームは徒歩20分も離れた場所で、温水の方には行列ができていた。仕方なく真水で浴びたが、さすがに冷たかった。凍えながらもこれとないシャワーには感謝し、心地よくなった体は寒さを感じるよりも、新鮮な空気を吸い込んで、気分は爽快になった。
それから日射しの中、仕事仲間と布団を草原にしいてごろごろし、キッチンに帰った。夕方になるとまた待ちに待った”Danny Byrd” がコンサートをやっているので、友達に頼んで仕事時間を変わってもらった。この時間帯はみんな忙しく、”Danny Byrd”には一人で行くことになった。開催地のほとんど反対側にあったステージには早歩きで40分くらいかかったろうか、Danny Byrdが始まるぎりぎりには間に合い小さなマーキーの中でDanny Byrdは幕を開けた。
壮絶なDrum & Bass が始まると同時に、観客は踊り狂い、モッシュが始まった。自分もかなりいい気分だったのでモッシュに参加する。押し合い殴り合い、力のつく限り暴れ回る。汗が流れる、足が踏まれる、顔が殴られる、それでも中に入り暴れ狂う。誰が始めた事なのだろうか、暴力が音楽によって正当化される。だが誰も喧嘩をしに来たわけではない。その中に憎しみはなく、見る顔皆が笑顔に満ちている。ベース音がフェードアウトしていく。すると皆距離を置き様子を観る。中心には輪ができ、開ききった空間ができた。ベースが帰って来る。予測されている瞬間に、囲まれていた空間に飛び込むようにモッシュが始まる。思うがままに体を動かし、力の限りに音楽へと飛び込む。端から見たら阿呆だろうか?突き飛ばされ、輪からはみ出た。踏みつぶされ、靴が弾きちぎれた。疲れが出て、蒸し暑苦しさが押し押せて来た。40分くらいいたろうか、こじ開けるように人ごみを抜け外に出ると爽やかな風に吹かれ気分は爽快。その爽快感の中、靴はぼろぼろになっていて裸足でカフェタンゴへと帰った。
皆に、Danny Byrdの話を興奮した状態で話し、靴を見せ笑った。それから、時間帯を変わってもらっていたので閉店まで働く事になったが、体の中の興奮は治まる事を知らず、カフェタンゴの中でも大音響に身を任せ、朝の四時まで仕事に明け暮れた。

翌日も同じようにインスタントヌードルで始まり、忙しい一日が始まった。疲れは出て来ていたが皆も仕事には慣れだしていてうまく一日は過ぎていった。この日はDiploDJをやっていて皆で見に行った。Diploもまた最高のステージを演じてくれて、皆でハイになり、カラフルな夜は時間を失い、浮遊間だけが記憶の中に残っている。
途中、仲間と離ればなれになり、出店の飲み物を眺めていると、ジョーに再会。何千人という群衆の中で、驚きは歓喜に変わり、疲れ果てていた体はまたひとつステージを見に行こうと活気に満ちる。皆に合流してカフェタンゴに帰り、皆でラフのテントの中でつぶれるまで飲み続けた。

最終日はいつも。仕事は九時頃には抜ける事ができ、念願のBjorkを皆で見に行った。回りのものはあまり興味がなく、説得に時間がかかった。それでもBjorkが始まってすぐステージにたどり着き、その摩訶不思議な音域に身を委ねる事に。30分も経たないうちに俺の友達は飽きてしまい、場所を変える事になってしまい残念だったが、かなり遠くから見ていたのでしょうがないとは思った。
それからサラの友達Ben Howard を見に行った。アコギとチェロ、二組だけでの演奏はまさに美しく、疲れきっていた体に旋律に流れた。観衆はみんな地面に座り、ステージを見上げている。ゆっくりと体を揺らすものも。目を閉じて見えないものを感じ取っている観客も。まるで静かな海原を漆黒の森林で見つけたのごとく、雄大なメロディーは柔らかく流れていった。
音楽を言葉にする事はおもしろい。意味の分からない事を表現するように、感じ取った事は鮮明さに欠け、辻図間の合わない状況は言語を持たない会話になる。それでいて自己満足的な表現だと言われれば単純にそれだけのものであって、共感をいただこうと書く事はできない。それでも感じた事に対してなるべく正確に、正直に感想を書く事によって、この幻想的な情景は現れて来る。書く事が好きになった理由である。
と、とりあえず、Ben Howard のコンサートの後、気分転換に皆でレスリングをやった。しけた雰囲気と言われれば皆静まり返っていたのは確かだった。暴れに暴れた。ベンに腕十時を決めたときは歓声が上がり面白かった。それから小さなマーキーでエレクトロを聞き踊り狂い、醒める事なくまたラフのテントで皆で風船を飛ばして遊んだ。

月曜日、目が覚めるとそこはまるで別世界。ほとんどの参加者達は帰路に着いたのかあたりには人影はなかった。代わりにその光景は暴風によって飛び交う無人のテントによってあたかも違う惑星にでも来たのかと、一瞬錯覚した。荷物を失ったテントは軽くなり、転がるたびにまた一つ、また一つと巻き込みながら飛んでゆく。大木は色とりどりにテントで着飾られ、防風林は風よけよりも、ゴミだめとして外に被害のでないよう堤防のように立ちはだかっていた。暗くなるまで撤去作業は続き、夜中10時過ぎ、ブリストルに向けて帰路についた。
真夜中の高速は直線に長く、道路上の暗闇に並ぶ反射光は転々と永遠に続いていく。淡々とした車線に高速で走る車の中は眠気と疲れを猛烈に運ぶ。変わる事のない景色に、前進しているのかさえ疑惑さえ出て来る。不思議と動いている車の動力に魔力さえ感じ、まるで魔法の絨毯にでも乗って、魔法の世界にでも方位をとっている気さえした。現実と夢の最中で呼吸の音に耳を澄ませ、途切れる閃光の先に時空の旅をする錯覚を見た。万国博覧会の建築物達が辺り一面に現れて来る。運転をしていたはずのラフと隣に座っていたはずのオリーが道化化して飛び回っていた。暗いはずの夜空に眩しい光が入って来る。もっと奥まで行けそうな気がするけれども、その先には行ってはいけない場所があるような妖気が漂い躊躇という判断力が邪魔をする。朗らかな音楽が流れ出しサーカスが始まった。そこにはもう想像と呼べるよりもはっきりとした、楽園が走行中のフロントガラスには映っていた。
ふと目が覚める。ラフのだいぶ疲れが出てたようで、休憩所に一時停車、爆睡していた。休憩後、午前六時、ブリストルに到着。無事の生還と、ちゃんとした布団の中に入ったときの感動は今でも心に残る。

それから三日間は蜘蛛の糸が切れたようにだらりと垂れ下がり、枯れた植物のように水分を吸い上げる力もなく、ゆっくりと冬眠する熊のごとく体の回復に時間を費やした。




ブリストル

元気になってからも、とくに大きな変化はなかった。ブログにギターの練習、アニメを見たり、友達とバーベキューをしたりした。夏は終わりに近づき、天候も悪化する一方。寒さが増したので買い物にも出かけた。ジーンズを購入、着用していたら皆に驚かれた。新しい靴を買ったときも笑われた。ヒッピーな生活はそれにて終了。ウェールズの、とある田舎で二日間のFood festivalもなんなくこなし、ハウスパーティにもいくつか参加。マッシュルームなんかも時にはでてきたり、ゴルフにいったりもした。そして二週間が過ぎた。


2011年10月11日火曜日

ウェールズにて


三日間も寝込んだ後、調子よくなって来たという最中、ウェールズでレイブパーティーに招待された。全く持って圧倒される。ラフの友達の親戚かなんかで、40歳になる誕生日パーティーだと。親戚同士のパーティーだと期待せず、あまりはしゃぐ事もないだろうと、とりあえず行ってみる事にしたがこれまた文化の違いに驚かされる事になった。人の住む所から人里離れたその叔父さんの家で行われた、ハウスパーティー。まずは駐車するためのフィールドの広さ、そして牛小屋丸一つ、が、ばかでかいステージと化し、トンネルのように続くレンガ製の小屋が、ひとつの社交会場とでも言おうか、そしてばかでかいたき火、面積に驚かされる。これが個人の持ち得る土地だろうか。ステージもこだわって作られており、ライブにコメディー、ヌードショー、こだわりがある。誕生会だけにしては規模が大きすぎる。フィンの父や、ラフの母まで来ていて大音響の中、楽しんでいた。そこにはフェスティバルで会った友達もいて、うまく馴染め楽しんだ。みんな仮装していて、荒れ狂うライブの中レイブは朝まで続いた。イギリス本場のパーティーを学ばされた一つの行事である。

それからラフの家に泊めてもらう事になり、ウェールズの広大な大地を車で走った。狭く、曲がりくねった道を時速100キロは簡単に出してしまうイギリス人。事故が少ないのが信じられない。よくレースをこの道でやったんだと安心させているのか、自慢しているのか、加速する車はラフの家に無事に着いた。イタリア人のラフの母は陽気で面白かった。家はまるでジブリの世界にでも出てくるような古風で大雑把。至る所から、鍋や食器がぶらさがっていて、大木で天井から柱まで落ち着いた雰囲気を出している。サニールームもあり、今まで見た家の中で一番気に入った家だ。文化遺産になっても全然不思議のないくらい、あまりにもいい家だった。その家に泊めてもらう事になり、夕食もごちそうしてもらった。そして、またラフの部屋にも驚いた。屋根裏部屋のような造りで、完全な木造建築。窓が大きく、とても住み心地が良さそうだった。いつかはこんな家に住んでみたいなと、夢に自分の将来の生活を描いてみたこの頃である。